向島に行く予定が長崎に変わった。こう書くと、長崎の出島から長崎市内へ行き先を変更したような気もするけれど、東京の話。目指すは「太源」。再訪だ。初めて暖簾をくぐったあの日から幾年。いい記憶しかない。さあ、今日も。と思ったら、何かが違う。ダバダ♬~~違いがわかる男が食べた中華そばとは?
自宅から直線で約17km先の向島を目指したのに、1~2km先の隣町、高円寺に着いたときにはすでに2時間近くが経過していた。次々に現れる“お宝”を見物していたら、そうなってしまったのだ。
時計を見るともうすぐ正午だった。仕方なく向島は諦め、《豊島区の「太源」の住所教えてちょ》と妻にメールした。ずっと行きたかった店なのだ。
返信を待ちながら、小路を縫うように東へ東へ進むと、大通りに出た。早稲田通りだ。そのまま早稲田通りを走る。
新しい建物ばかりでやっぱり大通りはつまんないな、と思っていたら、おや、なんだ残ってるじゃん。
さらに東進すると、再び商店街が現れた。早稲田通りを折れ、その中に入っていく。
《天然温泉》と書かれた銭湯があった。都市部の真ん中だ。地中を1000m掘ってなかば無理やり出した、あのよくある温泉だろう、と思ったら、後で調べると、昭和20年代に開業した銭湯で、引いていた井戸水に温泉成分が基準以上含まれていたことから、天然温泉と名乗るようになったらしい。
いいな、こういうのが近くにあったら。温泉上がりに商店街を散歩できるんだから。
商店街を行ったり来たりして、最も“匂う”小路を選び、入ってみる。
“お宝アンテナ”に任せて小路をクネクネ走っていくと、ほら、やっぱりあった!
一瞬、愛の宿かと思ったが、どうやらマンションらしい。なんて大がかりな意匠なんだ。
“コロッセオ”の写真を撮っていると、妻から返信があった。「太源」の住所は、ええと、長崎4丁目、と。地図をぱらぱらめくる。あった。えっ、もう目と鼻の先じゃん。やっぱり今日はこっちに呼ばれていたんだ。
まだまだ東だろうと思っていたが、少し東に来すぎていたらしい。コンパスを見て、北上する。
西武池袋線の椎名町駅に出たところで、西に引き返した。線路と並行に、風情ある商店街がずっと続いている。
やけに長い商店街だった。隣の東長崎駅まで綿々と続いているようだ。昭和の学生下宿っぽい家もぽつぽつ残っている。この長崎は誰もが知る下町じゃないと思うけど、これほどまで雰囲気のいい商店街がこんな規模で残っているんだもんな。東京はやっぱりおもしろいよ。
正午をとうに回っていた。揚げ物の店の前を通ると腹が鳴って仕方がなかったが、我慢我慢、と心の中で唱えながら走る。念願のあのラーメンを食べるのだ。思いっきり腹を空かせ、最高の状態で臨みたい。
ところで、ここ長崎の地名ってもしかして、と思っていたら、その看板が見え、膝を打った。
「長崎十字会」。その名もデザインもキリスト教っぽいよなあ。九州の長崎といえばキリシタン大名。なるほどね。
ええと、この筋だったかな、と記憶にかすかに残っている通りを北に折れる。その通りも商店街になっていた。
線路から遠ざかるにつれ、店がまばらになっていき、商店街の終わりのほうに、その店「太源」があった。暖簾が出ている。よかった。まだやっていた。
前回来たのは10年前ぐらいだろうか(と書いてから調べたら6年前だった。いい加減なものだ)。近くの中学校で夢をテーマに講演をやった。講演後、PTAのお母さんがわざわざ感想を言いに来てくれた。熱心な人で、話していると妙に波長が合う。僕はふと「このあたりに旨いラーメン屋さんありませんか?」と訊いてみた。
「あります!」
即答だった。おや?と思った。お薦めの店を訊くと、「うーん」と考え込む人が多いんだけどな。
彼女は間髪を入れずに「その店の『手打ちラーメン』がおいしいです!」と付け加えた。別れ際も「『手打ちラーメン』ですよ」と念を押した。
言われたとおり、その店「太源」に行って手打ちラーメンを食べると、まさに自分が求めていた味だ、と思った。夢中で麺をすすっていると、さっきのお母さんが娘を連れてきた。「めっちゃ旨いです!」と僕が言うと、「そうでしょ」と彼女は微笑んだ。ネットの見知らぬ大勢の意見より、顔を合わせ、通じ合ったひとりの意見のほうが、やはり確かなのだ。
店主とも話をした。どこかとぼけた味のある店主は、冗談ともつかぬ顔で「年だし、儲からねえし、もう閉めるかなあ」などと言っていた。
それから10年(ほんとは6年)、こうして来てみると暖簾が出ていた。思わずホッとしながら中に入ると、昼の混雑時を終えたばかりと思しき小さな店内には、高齢の客が2人と店主がひとり。僕はノーアポを詫びつつ、取材を申し込んでみた。
「10年ほど前(ほんとは6年前)に来て、食べて、感動したんです。もう一度食べたいとずっと思っていました」
取材と告げたときは怪訝そうだった店主の顔が、ふっとほころんだ。
「手打ちラーメン」を注文する。店主はすぐにはつくらず、商店街の歴史を懇々と語ってくれた。この先にも昔は店がたくさんあって、靴屋に、肉屋、文房具屋、その次は、えーと、電気屋で、それから……。
「そういう店が全部やめていってさ、ウチは商店街の真ん中にあったんだけど、いまじゃ端っこになっちゃったよ。人通りがなくなったねぇ」
僕は逆に不思議だった。線路に平行した“えらく長い商店街”だけでなく、そこから何本も枝わかれして伸びていて、とにかく規模が大きい商店街なのだが、それに見合った人通りがないのだ。
「昔はこのあたりは学生街で、学生の下宿がたくさんあってね、そりゃ賑やかだったよ」
やっぱりそっかあ。そうだよな。
「お店は何年やってるんですか?」
「昭和47年からだね」
僕が3歳のときだ。いま僕は50歳だから、お店の歴史は47年か。
「そのとき、ラーメン一杯いくらで出していたか覚えてます?」
「60円だね」
えっ、俺、そんなに昔に生まれたの?
「ところで、ここと九州の長崎って関係あるんですかね?」と訊くと、カウンターで食べていたお爺さんが、おかしそうに話に加わってきた。
「ここはもともと長崎氏という武将が治めた地で、長崎村という名前だったんだ」
「えっ、じゃあ九州の長崎とは」
「関係ないよ」
さっきの「長崎十字会」は、単なる商店街の名前らしい。
「すぐそこに東長崎って駅があったでしょ。九州の長崎駅から見て、こっちは東にあるからその名前なの。同じ名前の駅名は認められないからね」
訊けば、おじさんは国鉄の職員だったんだそうな。
ラーメンがきた。
あれ、こんなにスープ黒かったっけ?麺も記憶とちょっと違うような。
食べてみると、おいしいんだけど……うーん、やっぱり前と違う気がする。この10年(6年だけど)で変えたのかな。それとも思い出が美化されていただけだろうか。でも味覚の記憶って結構正確なんだけどな……。
ほとんど食べ終えたところで、「麺、変えました?」と訊いてみた。
店主は変な顔をしながら「いや、変えてないよ」と言う。
ハハ、何が“味覚の記憶は正確だ”だ。
「そっかー。『手打ちラーメン』ってもっと縮れていたイメージがありました」
「それ、手打ちじゃなくて、普通のラーメンだよ」
「えっ?」
「え、『手打ちラーメン』が食べたかったの?それならそう言ってくれなくちゃ~」
言ったわ!――と腹の中で突っ込みながら、空気人形の空気が抜けてふにゃふにゃと座り込むように、力なく笑った。10年越し(6年越しだけど)のラーメンのために、思いっきりお腹を空かせてきたんだけど……。
――つづく。
文・写真:石田ゆうすけ