敢えて言うべきでないことがある。たとえば、性的なこと。興味もある、関心も大いにある(はず)。でも、口を噤まなければいけない場面は多い。話す必要がないのかもしれない。言うことをためらう何かがあるのかもしれない。常識と礼儀なのかもしれない。でも、人として生きていく限り、誰もが性とは無縁ではいられないことは周知の事実。
「すべての女は誰かの娘である」(https://www.instagram.com/explore/tags/すべての女は誰かの娘である/)という#(ハッシュタグ)で時折インスタグラムに写真を投稿している。女性のポートレートである。
なんでこんなことを思いついたのかというと、世の中に女性のポートレート写真は溢れていて、そのほとんどは20世紀的な男性の視線で撮られているものが多い。より直截にいうなら性的なファンタジーの対象としての女性の姿である。オレの女、あるいは、オレの女としてこうあってほしい、的な所有の感覚に満ちあふれていて、ちょっとうんざりである。
そして自分も、やっぱり男なので女性を性的な対象として見て、綺麗だとか美しいとか色っぽいとか思っている。
しかし、常にそう思っている、というわけでもない。というかむしろ、ほとんどの時間はただ「人間」として出会ったり接している時間の方が長いだろう。当たり前ですよね。それって案外、写真になっていないのかも、と思うんですね。
男が普通に人間として他人と接して、その相手がたまたま女性である、というような写真。作品やアート、ということでもなく、女性の尊厳、とか言っちゃうとやや高尚すぎたりもして。ただ普通に、あー、こういう女の人っているよなあ、という生きている実感が感じられる写真。主語が1人称じゃない写真。どうしたらそういう写真が撮れるのか、メソッドが確立しているわけでもないし、その事ばかりを考えていると、むしろまた古い所有の感覚の写真に戻ってしまいそうにもなるので、あまり必死にならないように続けているのだが、たまに、何だか素敵だなあ、良いなあ、と思える写真が撮れてしまうことがあって、そういうときはとても嬉しい。
だから女性を性の対象としてだけ見るのはもちろんナンセンスだ、とボクは思っているのだが「すべての女は誰かの娘である」という言葉には別の点から性のことを考えさせる何かが孕んでいる。つまり、この世の中の人間全員が、誰かと誰かがセックスをした結果、生まれてきて生きている、ということを遠回しに言っている。
小学生の高学年か、中学生の頃、保健の時間に生殖の仕組みを学んで、自分の両親がセックスをして自分が生まれてきたことを知ったときの戸惑いと驚きをいまでもときどき思い出す。隣に住んでいる美雪ちゃんも、あのお父さんと、あのお母さんがセックスをしたから生まれてきたのである。教室にいるほかの同級生もバスケット部の顧問もピアノの先生もテレビに出ている芸能人も政治家もぜ~んいん!がそうなのである。その戸惑いと驚きをいまでも電車の中とかで突然に思い出すことがあって、いまの自分は子どもの頃と違って童貞ではなく、セックスを経験したこともあるので、たとえばこの電車の乗客全員が誰かと誰かがセックスをして生まれてきたんだな、と思うときの生々しさはハンパない。
大好きな人との甘美な時間、義務、なんとなくの惰性、人口受精、レイプ。セックスだって色々である。何年か前の誰かと誰かのそういう行為の結果、生まれた人たちが同じ電車に乗って、それぞれに膝の痛みのことや、午後の会議や、きょうの晩ごはんのことを考えているのである。
誰かと誰かが出会って、わたしやあなたが生まれる不思議、人間の面白さを考えていると、もうひとつ気になることが出てきます。誰かと誰かが出会う前のもうひとりの誰か。平たく言うと、母親の元カレ、とか父親の元カノである。
自分の母が父と出会う前に付き合ったり、好きだった人のこと。ほとんどの人は初恋の人と結ばれて子供を授かる、なんていうことはないわけだから。もし結婚した母が父と出会う前に好きだった人との付き合いが「上手く」いって子どもが生まれていたならば、ボクは生まれていなかったわけですね、きっと。
実際に自分の母は父と出会う前に誰か別の男性と付き合ったことなんてなかった、と言っていたが、もし仮にそれが本当だとしても、思春期以降、好意を持った男性は何人かはいたに違いない。そしてそのボクの知らない男性との関わりや、その人への想いも、彼女のパーソナリティーの形成にひと役買っているわけじゃないですか。その相手が生きているとしても、その人に会ってみたいとは思わないが、写真があるなら見てみたい。そしてその人がどんな風に魅力的だったのかを考えてみるのは面白い。
あなたのお母さんの元カレの写真。ほとんど他人の肖像。ほとんどね。
――明日につづく。
文・写真:大森克己