蕎麦と言えばつゆにつけてズズッとすするものですよね。しかし、思わずつゆにつけずに食べたくなるほど、強烈で純粋な蕎麦の風味が味わえる店があります。そんな蕎麦喰い必見の神田の名店をご紹介します。
「眠庵」主人・柳澤 宙(ひろし)さんの打つ蕎麦は、ただそれだけで十分旨いと思わせる力強さがある。鼻先を近づけただけでむせかえるような、鮮烈にして猛々しい香り。それを、初めて体験したのが、この店の蕎麦だった。
草っぽい香りもあれば、ナッツのような芳ばしさもある。一口啜り込めば、口中が豊かな甘味で満たされる。蕎麦もまた穀物なのだと再認識する一瞬だ。
美味しさをたとえるなら、炊きたての白いご飯といったところだろうか。旨い米なら、そのまま食ベたいと思うように、柳澤さんの蕎麦の風味の高さに、ついついそれだけを口に運んでしまう。蕎麦つゆは、蕎麦を啜る合間の口直し。ある意味、漬物的存在と言ってもいいかもしれない。もちろん、つゆをつけても美味しさは変わらない。だが、何もつけないほうが、蕎麦本来の持ち味を、よりダイレクトに楽しめる。
柳澤さんはまた、合間を縫って各地の蕎麦畑を巡り歩き、時に作業も手伝う。「同じ産地でも、品種や畑が違えば味や風味が変わるから」と、蕎麦農家や品種別に製粉して打ち分けるスタイルも確立してきた。彼ほど蕎麦の個性を的確に把握し、表現している人もいないだろう。こんな蕎麦は、そうそうない。柳澤さんはやはり革命児なのである。
文:森脇慶子 写真:神林 環
*この記事の内容は2017年8月号に掲載したものです。