「まんぷく食堂」がオープンしたのは、1975年。まだ20代だった鋤柄廣彦さんと鈴子さんが夢と想いを込めて開業した。40年以上経った今では、名物のからあげ丼が地元のソウルフードと言われるまでになった。親子三代にわたって店に通う客もいるほどだ。廣彦さんと鈴子さんが紡いだ、からあげ丼愛の物語。
まんぷく食堂の店主で常連客のお母さん的な存在である鋤柄鈴子(すきがら・すずこ)さんは、伊勢神宮の内宮に近い町で生まれました。名古屋市内の旅館で働いているときに、2歳年上でのちに夫となる廣彦(ひろひこ)さんと出会います。若いふたりは惹かれ合い、鈴子さんが19歳、廣彦さんが21歳のときに結婚しました。
「いずれ必ず自分たちの店を持ちます」
若すぎる結婚を心配する廣彦さんの両親を説得するために、廣彦さんは固い決意を語りました。その言葉は、横で聞いていた鈴子さんへの約束でもあったでしょう。結婚後、ふたりは伊勢に住み、廣彦さんは外宮前の料理店で板前として働きます。
ふたりの思いが結実したのは、結婚して7年の歳月が流れた1975(昭和50)年のこと。近畿日本鉄道が、宇治山田駅から鳥羽駅までの複線化完成を記念して、宇治山田駅に隣接する高架下に20店舗ほどが入る「宇治山田駅ショッピングセンター」(現・うじやまだ駅前横丁)を建設します。テナント募集の抽選に当たった鋤柄夫妻は、ついに自分たちの城を築きました。
「『まんぷく食堂』っていう名前は、主人が付けました。親しみやすい名前で、来てくれたお客さんにまんぷくになってほしいという気持ちを込めたそうです」
今でもほかの店より格段に盛りが多い「まんぷく食堂」ですが、開業当時は「もっと多かったですね」と鈴子さん。もはや「お腹はちきれ食堂」ですね。
「まんぷく食堂」の代名詞でもあるからあげ丼が誕生したのは、開業から2年後。「この店にしかないメニューを創りたい!」と思った廣彦さんが、試行錯誤の末に生み出しました。鶏肉を付け込む秘伝のタレの配合など、レシピは当時から変わっていません。
「新しいことを考えるのが好きな人でした。今もやってますけど、仕上げに大きなミルをがりがりやるのも、見た目に楽しくてお客さんに喜んでもらいたいからって」
何をかけているかは、最初の頃は「いちおう秘密」でした。どうやら胡椒であることはわかりますが、そこはあえて「秘密の粉、多めで」とか「秘密の粉、ちょっとにして」などとリクエストすると、からあげ丼のツウになった気分になれるでしょう。
「お父さんは趣味の広い人で、ひところは陶芸に凝ってました。そこのミルを入れてある器は、お父さんがつくったものです。女性関係は大丈夫でしたけど、けっこう道楽者でしたね。身体が弱かったこともあって、途中からお店はほとんど私がやってました」
亡きご主人のことを静かに語る鈴子さん。からあげ丼を創り出したことについては「よう考えたなあ」とリスペクトしています。「生きてるときは言いたいこともありましたけど、もう昔の話です」とも。
ご主人が50代の若さで亡くなったあとは、息子の大平さんとの二人三脚で店を守ってきました。今、廣彦さんにどんな言葉を伝えたいですか?
鈴子さんはしばらく考えて、静かにこう言いました。
「いいお店を残してくださって、ありがとうございます。息子も頑張ってくれていますので、安心してください」
からあげ丼の香りととともに、きっと天国の廣彦さんに届いたに違いありません。
次回は、父親の死後、鈴子さんとお店を守っている大平さんの物語。
――つづく。
文:石原壮一郎 写真:阪本勇