人は、何かにつけて、神に頼る。ピンチのとき、願いごとを叶えたいときなどなど。それは、特定の神のときもあれば、ぼんやりした神、意味不明な神もいるかな。誰もが神の存在を知らないわけじゃないけれど、神の正体を知っているわけじゃない。まぁ、知っている人もいるのかもしれないけれど、わからなくていいんだと思う。
神の存在と子育ての関係。えらく大袈裟な響きですね。でもまあ、文字通りの話です。
子どもの頃、自分が何か悪さをして両親から怒られるときによく「お母さんにはわからなくても、神さまはすべてわかってらっしゃるのよ」という風に言われたものだ。子どもの自分にとって神さまの具体的なイメージがはっきりとあったわけではないが、なんとなく自分の両親とは別の、なぜか男性の、厳粛な雰囲気の髭面の誰かが、いつも自分の行動を上の方から見ていて、すべて把握しているのだ、という漠然とした思いはずっとあった。特に、人を傷つけたり、モノを盗ったり、というハッキリとわかる悪事ではない、でもちょっと後ろめたいことをしているときに、よく神さまのことを考えた。
親の行ないを手本にして子どもは育つのであろうが、その親が立派であろうがなかろうが、優しかろうが、そうでなかろうが、その親自身の行ないとは別の、神さまとその教えが記されている聖書という基準をボクの両親は持っていた。
大人になったボクは両親が信じていたキリスト教の信仰から離れ、宗教心がまったくないわけではないが、特定の宗教に帰依することなく成長した。
街を歩いていて神社などがあれば手を合わせることもある。自然に接すると人智を越えた何かに畏怖する気持ちにもなる。何となく気が良い場所と悪い場所の区別があって、そのことに対するセンサーのようなものは備わっている。そんな感じの宗教センスとともにボクは暮らしている。
さて、そんな自分も21年前に父となり子育てが始まった。で、たとえば、子どもが何か悪さをしたときに自分には神さまがいないのである。拠り所となる聖典もないのである。「神さまはすべてお見通しだからね」なんて言えないのだ。だって信じていないから。これはなかなか大変なことなんだな、ということに段々と気づかされる。自分がすべて、人間がすべて、というわけだ。
もちろん自分にだってより良く生きよう、という意志はあるわけだが、あくまでも、それは、つもり、であって、客観的に見れば、意地汚く、金に汚く、だらしない、という局面だってあるだろう。「いつもオレの背中を見ていろ」と子どもに胸をはって言える大人っているのだろうか?「お天道様が見ているよ」という言葉もあるのだろうが、自分の同世代の親で、その言葉を子ども達に自信を持って発した親はいかほどいるだろう?
うちの娘が通っていた高校は宗教とは無縁の教育方針だったが、入学式の訓話で校長が現役の、有名なスポーツ選手の言葉を引用して生徒たちを励ましていたが、その選手がこれからも、未来にかけて良き人間として人生を全うするかどうかは誰にもわからないわけで、その話を聞いていたボクはちょっとヒヤヒヤしてしまった。つまり神の存在というのは、なかなかに優れた発明だったんだな、と最近の自分は思うのである。
かといって、自民党のオッサンの政治家のように、宗教心や道徳心を国家が教えるべきだ、なんていうのはまっぴらゴメンである。神も死人も裏切らない。友を棄てるのは生きている人間である。ただ、大人って大変だなあ、と思いながら、毎日生きている。
ちなみに、むかし読んだ聖書の言葉で一番好きなのは、旧約聖書の『雅歌』である。『雅歌』というのは聖書のほかのパートとはかなり違いがあって、古代ユダヤの王が詠んだとされるエロティックな愛の歌である。世界中のほかのローカルな民族や集団の歴史の初期の物語と共通する普遍的な生きる力を感じます。英語では“Song of Songs”という。
「エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。」(『雅歌』2章7節)
――10月25日につづく。
文・写真:大森克己