山の音
信じる自由、信じない自由。

信じる自由、信じない自由。

信教は自由である。特定の宗教を信じるも、信じないも自由である。そうは言っても、信仰と無縁な生活を送ることは不可能に近い。ふとした瞬間に「神様お願い」と祈ることもあれば、葬儀を前にして宗派について考えることもある。意識するしないに関わらず、宗教はすぐ近くにあるんですよね。

ハイドン作曲の現在のドイツ国歌も讃美歌194番として大好きな歌だった

前々回の讃美歌312番『いつくしみ深き』の話のつづきのような、そうでないような話。
実はボクは両親がクリスチャンで、それもかなり熱心なプロテスタントの教会員だったので、幼児洗礼を受け、10代の半ばまで毎週日曜日には教会に行き、礼拝に参列していた。その後、キリスト教の信仰告白に至ることはなく、高校生の頃からは礼拝に出席することもなくなった。

教会

ただ、物心つく前から、毎日曜日の教会で聴いた、そして自らも皆と歌っていた音楽体験が、自分の音楽に接する際の趣味指向に大きな影響を与えていることは間違いない。
19世紀のドイツの作曲家、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』の序曲がメチャ好きなのですが、そのメロディーが讃美歌285番になっていたりするのだ。ボク自身は『魔弾の射手』序曲ということを知らずに讃美歌として子供の頃から歌っていた。ハイドン作曲の現在のドイツ国歌も讃美歌194番として大好きな歌だった。讃美歌的なメロディーとハーモニー、そしてオルガンの音にはいまでもグッときてしまうことが多い。
前述の通り今の自分はクリスチャンではないのだが、子どもの頃からの無意識下のキリスト教の考え方の影響が音楽だけなく、ひょっとしたら人生そのものにもあるのかもしれない。

この世の友人が自分を棄て去ることがある

マイク

「いつくしみ深き 友なるイエスは/かわらぬ愛もて 導きたもう/世の友われらを 棄て去るときも/祈りにこたえて 労りたまわん」
これは『いつくしみ深き』の3番の歌詞なのですが、この世の友人が自分を棄て去ることがある、ということが前提になっていて、それでも自分は神を信じる、という思考パターンって、現在の日本の人と人との絆や人情が大切という考え方とはかなり距離がありますね。でも、結婚式場の中の商業的(といって良いと思いますが)なチャペルで、この歌が歌われる際には、ほとんど1番だけで、3番の、友が自分を棄てるくだりは歌われず、ちょっとそれを自分は物足りなく思ったりもする。友人が自分を棄てるかも、ということはもちろん、自分が誰かを棄てるかも、ということでもあり、自分が気付かずに相手はそう思っているときもあるという、考えてみると怖い話である。そういう人間の無情とか孤独とか信仰の受けとめ方が自分の中に少しはあるような気もします。それは平家物語的な無常観とも、かなり違うように思えるなあ。
そして、人間のコントロールの及ばない領域といえば、世界のどこでもまず、自然、という凄いものがあると思うのだけれども、さらにその自然の上に神さまがいる、という世界観をヨーロッパの人は持っているわけですね。
ある意味、こういうややこしい考え方を、音楽というものはさらりと表現して人間の無意識に入ってきてしまうヤバいものでもある。

聖書

――明日につづく。

文・写真:大森克己

大森 克己

大森 克己 (写真家)

1963年、兵庫県神戸市生まれ。1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞を受賞。近年は個展「sounds and things」(MEM/2014)、「when the memory leaves you」(MEM/2015)。「山の音」(テラススクエア/2018)を開催。東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(2013)、チューリッヒのMuseum Rietberg『GARDENS OF THE WORLD 』(2016)などのグループ展に参加。主な作品集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や『BRUTUS』『SWITCH』などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。