料理をすることで、何かが変わることがある。料理には音や香りがつきもの。そう、特有の音と香りで、目の前の景色が一変して愉しくなることを僕らは知っている。もちろん、うまくいかないことだってある。予期せぬハプニングもある。経験を積みながら覚える。失敗を繰り返しながら学ぶ。たいへんよく出来ましたで好きになる。あれ、これって、なんだか、人生と似ている。
3連休の直前にイヤなことがあって気持ちが沈んで、ヤケ酒を飲もうと思ったのだが、それをやってしまうとますます気持ちが沈んで荒みそうだ。
どうしようかな、と思って冷蔵庫を開けてみると挽肉が余っていたのでカレーをつくることにした。玉葱を刻んで、人参をすりおろし、大蒜と生姜をみじん切りにして、23時のキッチンで野菜を炒め始める。15分ほど炒めてしんなりしてきたところでトマト缶を開け、別のフライパンで炒めた挽肉と缶詰のひよこ豆と一緒に煮込む。30分ほど煮込んだところで、茄子を乱切りにして投入。その後、カレールウを加えて、隠し味にインスタントコーヒーを少し加えて出来上がり。
冷やごはんをレンジで温め、大盛りのカレーライスを爆食い。家族は旅行に出ていて、ひとりの深夜飯である。そう言えば、さっきまで13日の金曜日だったな。もう日付けは変わったな。忘れてしまった方がいいイヤなことと、しっかり自分の心に刻み付けておきたいことと、なかなか区別がつかない。
さっき受けとった、ちょっとだけセンスあるかも、と自分がうっかり思っていた人間からの裏切られたようなメールの愛のない文面が、ときどきフラッシュバックして本当にカレーライスに申し訳ない。ごめんね、カレーくん!
隠し味だったはずのコーヒーの苦みと玉葱の甘味のコントラストが強過ぎる。カレーライスは、もとの玉葱と大蒜と人参と茄子と生姜と挽肉と豆とトマトとコーヒーとごはんに還元することが出来ないように混ざっている。酸味と甘味と塩気とスパイスの刺激と苦みも分割することは出来ない。時間も逆には流れない。
悲しみの音楽も喜びの音楽も区別がないということを思い出す。讃美歌312番「いつくしみ深き」は結婚式でも葬式でも歌われる。悲しみの音楽が失敗した料理というわけではない。悲しみの音楽は演奏ための技術と、人生に対する深い直観と洞察のおかげで生まれてくるのであろう。でも、ひょっとして音楽と料理は似ているのかもしれない。それは皮膚と粘膜と魂に直接沁みてくる。
――明日につづく。
文・写真:大森克己