山伏でもある井賀孝さん。自身のルーツである、実家近くの修験道の行場を散歩したあと、旅の最終目的地である「みどり」へ向かいます。思い出のお好み焼きを食べるために。
早朝にタクシーで帰ってきて、そのままごろん。寝返りを打ったら、目の前に担当編集者の星野君の寝顔が大きくあって凹んだ……それで起きる。
星野君は私の実家に泊まったのだ。いびきをかいて気持ちよさそうに寝ている。しばらくそのまま寝かせておいたが、まったく起きる気配がないので、「おーい。朝だぞ。行くぞー」と起こす。
さっと身支度をして、歩いて出かける。時刻は10時を過ぎたところ。朝の散歩である。実家は坂を上がった高台にあるので、まずは下っていく。下りきったところに鳴滝川があり、そこから上流に向かって川沿いを進んでいく。
実家から10分とかからないところに、家族が眠る、圓明寺がある。臨済宗妙心寺派の禅宗のお寺である。実家に帰省すること自体が大変なので、昨年の盆以来の墓参りである。ここには兄が眠っていたので、子供の頃から何度も通った。
今は父、母、兄の3人が眠っている。
特に、父が信心深かった。父は和歌山市よりもっと田舎の粉河町(現在は紀の川市)の出身で、その辺りの人は往々にして信心深いこともあり、父もその影響を受けて育ったためと思われる。時代の変遷に伴い、変わりつつはあるけれど、一般的に言って都会より田舎のほうが、祭祀を重んじる傾向にあるのではないだろうか。
昔は人は亡くなった後は山に帰ると考えられていた。おらが山、里から一番近い大きな山にご先祖さまは住んでいると。加えて山は山菜や獣の肉など恵みをもたらしてくれるところ。水もそうである。山から流れてくる。水は田んぼにも欠かせない。人は山への感謝を忘れなかった。秋は祭りが多い。収穫の時期である。農作物の収穫を山の神やご先祖さまに感謝するのが秋祭りの由来である。「祭り」は「祀る」を語源としている。
1年ぶりに墓参りができてよかった。墓参りと一緒に必ず行くところがある。圓明寺から家の方向に戻ること2、3分の、鳴滝不動尊だ。圓明寺が管轄する行場である。ここは子供の頃の遊び場でもあった。
今日は7月28日。28日は不動明王の縁日であるため、普段より多くの人が集まっていた。鳴滝不動尊はその名が示すとおり、不動明王を祀ってある。今から1300年前、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)、本名は役小角(えんのおづぬ)が法華経全28巻を葛城山系(現在の和泉山脈)の28ヶ所に分納して霊場とした。その経塚「葛城二十八宿」の3番目の地が、現在の鳴滝不動尊であると言い伝えられている。
修験道とは、日本古来の山、川、木、岩、花などすべてのものには神霊が宿ると捉える自然崇拝(古神道とも称される)に、大陸から伝わってきた仏教が密接に絡み合ってできた日本固有の山岳宗教のこと。その開祖、役行者は和泉山脈や大峰山脈など、紀伊半島の山々で修行した。
鳴滝不動尊とは、鳴滝川にある小さくとも立派な、滝そのものをご神体とした行場のことである。脇にお不動さんが祀ってあり、護摩壇とお堂がある。
鳴滝不動尊がある山々は、小学生だった私にとって、カブトムシを捕り、ハヤを釣ったりした格好の遊び場でもあった。
鮮明に覚えている映像がある。あるとき、白衣を身に纏った人が懸命に滝に打たれていた。「なにしてんのやろ?」と子供心に不思議だったものだ。そういう人たちがいるときは「なんかここで遊んだらあかんのかなあ」と子供なりに察していたフシがある。今思えば。滝は小さな二段構えになっているのだが、上の滝壺がとても深くて夏に入ると最高に気持ち良かった。ただしめ縄の中なので、聖域である。そこでばしゃばしゃとやっていた。
後に自分が山伏修行をするようになり、ああ、あれは修験道だったのかと、すべてが結びついた。そして大きく驚き、また感激した。私が慣れ親しんだあのお山は、役行者が開いた行場そのものであり、またご神体だったのかと、私はそこに抱かれていたのだと。そしてその行場を治めているのは、父、母が眠る圓明寺である。めぐりあわせを感じずにはいられなかった。
鳴滝不動尊を訪れた人たちは、ご神体である滝の前で手を合わせる。
実家から歩いてすぐそばに、このような文化がある。星野君は驚いていた。「こんな世界ってほんとにあるんですね」と。東京の都心で生まれ育った人には、少し縁遠いことかもしれない。山と人。そして信仰が当たり前のように日常に根付いている、その距離感に驚いたのかもしれない。
実家に戻り荷物をまとめ、窓をすべて閉める。開いているところはないかと入念にチェックして、最後にブレーカーを下ろした。玄関の鍵を確実に閉め、実家を後にする。この家の扉が開くことはまたしばらくない。少しだけでも家の空気の入れ替えができて良かった。
今回の旅の最後に、伯父と伯母が切り盛りしているお店「みどり」でお好み焼きを食べることに決めていた。
思えば、おかんはあまり料理が得意ではなかった。自分でもつくるのは好きじゃないって言っていたし。それでもすぐに思い出せる料理がいくつかある。
好きだったのは茶碗蒸しと、お手製肉団子と野菜がたっぷり入ったコンソメ味のスープ。
半日授業の土曜日は、学校から帰ってくれば、吉本新喜劇をテレビで見ながら、母がつくった焼きそばか、胡椒がしっかりと効いたハムの入ったチャーハンを食べた。夏はそこにそうめんがレパートリーに加わる。そうめんは子供の頃は嫌いだった。
夜は親父が魚が好きだったから、煮付けなどの魚料理が多かった。当時はそれが好きじゃなかった。アジの南蛮漬けも嫌いだった。今ならばたいそうなご馳走である。味覚は変わる。親父が仕切るうどんすきは好きだった。おかんがつくる青ねぎの入った卵焼きも好きだった。どんどん出てくる。子供の頃に食べたものは、忘れないものだ。
どんなものを食べて育ったかは、ボディーブローのようにじわーっと大人になってから影響が出てくる。「みどり」のお好み焼きもまた確実に私の体に残っている。
「みどり」は和歌山市で最も栄えている「ぶらくり丁」界隈にある。厳密にいえば、「栄えていた」と過去形にするのが正解かもしれない。この辺りはいわば、和歌山市の銀座とも言える場所で、私が子供だった頃、30年~40年前は往来を歩く人は多くとても賑わっていた。しかし、今は中心市街地が空洞化し、シャッター通りと化してしまった。
そんな場所で「みどり」は今も昔と変わらず営業している。昨夜集合した同級生たちに、「『みどり』っていうお好み焼き屋知ってる?」「『ドン・キホーテ』の隣、昔は『大丸』だったところの隣なんやけど」と聞いてみたら、大抵の者が知ってて驚いた。「高校の帰り、試験が終わったあとによう行ったわー」「えっ、まだ営業してんの?伯母さんすごいねー」などと返ってきた。なんだ、私だけでなく、同級生の胃袋も満たしていたのかと嬉しくなった。
訪れるのは2年ぶり。「久しぶり。来たよ」。ちょっと照れくさい。
ここは母親の兄夫婦が営んでいる。9月が誕生日のふたり。まもなく伯父が81歳で、伯母が77歳となる。
カウンター5席に、座敷が5卓。ゆったりと居心地がいい。私と星野君以外にはもうひと組のお客さんがいた。
「昨日は忙しかったのよー。台風の雨が止んだ午後から。今日は一変して、暇」と、伯母が話しながら座敷に案内してくれた。
「そうなんや」と相槌を打つ。
「長いことやってても全然読めやんわー、客商売は。昨日は台風やったのに忙しくて、今日はこんなに天気ええのに暇やもんね。法則なんかあらへん」と、伯父からぽんぽんと言葉がこぼれる。
店を営業することが「だいぶしんどなってきた」と伯父は言うけれど、いやいやどうして元気なふたり。80前後にして、頭も足もとてもしっかりとしている。
「なんにする?」と聞かれたので、「ミックス。それと焼きそば」と答える。「みどり」のお好み焼きは幼少の頃より食べている。記憶があるのは4歳ぐらいから。もともとは祖母がお好み焼き屋をやっていて、母も結婚する以前は、学校や仕事から帰ったあとに店を手伝っていたようである。そこに伯母が嫁いできて一緒にやるようになった。
母にとっては実家なので、小さい私を連れてちょいちょいバスに乗って帰り、よく持ち帰って食べた。
私が思春期になって母と出歩くこともなくなり、さらに上京してからは「みどり」のお好み焼きを食べる機会は減ったが、私が結婚して家族ができて、再び訪れるようになった。お好み焼きは子供たちも大好きだし。
「みどり」では、伯父と伯母がカウンターの鉄板で、お好み焼きや焼きそばを焼いてから、温めた座敷の鉄板に出す。
ビールを飲んで談笑していると、伯父がお好み焼きの生地を鉄板に落として焼き始めた。しばらくして交代し、伯母がじゃっじゃっじゃっと手際よく焼きそばを焼く。見慣れた光景。卵を鉄板に割って卵焼きをつくり、それを焼きそばに混ぜる。最終的には伯母がお好み焼きと焼きそばの両方を仕上げる。
でき上がると、我々が座っている座敷の鉄板に持ってきてくれた。まずは焼きそばから。
「うまそー」。ほんのりと湯気が上がって、おいしさがファインダー越しに伝わる。撮影そっちのけで食べてしまいたかったが、踏みとどまった。
コシのあるもちっとした太めの麺に甘めのソースがたっぷりと絡む。イカ、キャベツのシャキシャキ感、多めに入った肉と焼き卵のしっかりとした歯ごたえ、青海苔の風味に、ときおり存在感を示す、脇役としての紅生姜。色々なものがミックスされた豪華な焼きそばである。1人前730円なり。
焼きそばは自分でつくると、べっちゃっとしがち。それはそれで素人っぽくて旨いのだが、「みどり」のは野菜はシャッキと、麺はもちもちしていて別格だ。具材というより焼き加減が肝なんだろうな。熱い鉄板で豪快かつ繊細にささささっと焼くのだ。星野君とふたりで黙々と平らげた。
お好み焼きがきた。
きたよきた。これこれ。これを食べに和歌山に帰ってきたのである。厚くて大きい。
上京して、初めて食べたお好み焼きが、小さくて薄くて驚いたことをよく覚えている。まずサイズの違いに驚いた。味のことは覚えていない。私にとってお好み焼きは、まずこのサイズが大事なのである。
ふっくらと焼き上げられたお好み焼きを頬張ると、ソース、青海苔、粉かつお、マヨネーズが絡まって口の中に広がる。
「お好み焼きっておいしいわー」
偽らざる心情である。伯母が焼いてくれた「みどり」のお好み焼きを食べると、おかんと祖母のことも思い出す。そこは情景としてセットなのである。子供の頃を思い出すのだ。
おかんとの別れは突然で、何も話せなかっただけに、ときおりふっと思い出す。何もしてやれなかった苦い思い出。食べ物は人の想いを呼び覚ます。記憶のスイッチなのである。だからごはんは人と一緒に食べたほうが豊かなんだ。ただ体をつくるための素材じゃない。ごはんは。それが人の食事。だから文化なんだよ。
祖母が始め、おかんと通い、伯母がずっと続けてきた「みどり」のお好み焼き。
私は伯母が焼く、「みどり」のお好み焼き以上においしいお好み焼きを食べたことがない。あと何年生きてもそれは変わらないように思う。
――おわり。
文・写真:井賀孝