朝の5時50分に新宿駅を出発して、各駅停車に揺られて、和歌山へ向かう。静岡付近で、列島沿いを遡るように関東に近づく台風6号に鉢合わせ。こりゃ、いかん。腹が減っては戦はできぬ。暴風雨の名古屋駅できしめんで腹ごしらえして、一路ゴールを目指します!
台風6号は午前7時頃に三重県南部に上陸していた。そのまま名古屋方面、北北東に向かって20km/hで進んでいる。中心の東側330km以内と西側170km以内は風速15m/sの強風域。最大瞬間風速は25m/s。JR在来線が運行を見合わせるには十分な勢力は保持している。
沼津駅を8時44分に出発した東海道本線豊橋行は、順調に西に向かって進んでいる。休日の朝なのと、台風が近づいているからだろうか、この時点で出かける人は少ないようだ。電車内は思ったよりも空いていて、座ることができた。
それとも静岡県東部、伊豆半島の根元を越えたこの辺りまで来ると、東京の喧騒とは違って、天気の良い平日の列車でも、このような雰囲気なのだろうか、などと想像してみたりする。まったりとした空気は眠気を誘うのか、向かいの座席の人たちはみな眠っていた。おいおい“まったり”と書いてしまったぞ。そう、この時点でも台風の気配はなかった。
静岡県は東西に長く、距離にして約155kmある。車で和歌山に帰省する際も、静岡県を通過するのに相当な時間を要する。いわば最初の関門である。もちろんそれは東海道本線も同じことで、沼津から静岡と愛知の県境にある豊橋までは172分の予定である。約3時間。今回の行程で一番長い部分。
本来なら飽きがきそうなところだが、担当編集者で、柔術アカデミーの後輩でもある星野君が同行しているから、まったく苦にならない。ふたりで話していると、自然と時間は過ぎていく。ただし何を話していたのかは全然覚えていない(笑)。柔術と写真の話ぐらいだろう、せいぜい。
ここまでときおり晴れ間も見えていたが、ついにきたかという感じで、ようやく空が重くなってきた。静岡市と浜松市の間にある、静岡県中部に位置する島田市の辺りから雨が降ってきた。時間は10時を少し過ぎたところ。駅でいえば六合駅と島田駅の周辺。みるみるうちに暗くなっていく。晴れ間からの暗転。写真的には面白い。せっかく旅に出てるんだ、なんでも楽しまないと。
思えばこれまでも遠回りばかりしてきた。近いルートはわかっているのに、わざわざ通ったことのない道を選び、飛行機で飛べばあっという間のところを、フェリーやバス、長距離列車を選んできた。ブラジルでも、アメリカでも。写真家とはそういう生き物。飛行機でさっと飛んでしまったら、目的地までの景色や、人の営みに触れることができない。どんな出会いが待っているかわからないのにもったいないではないか。写真家は自分の目で見て歩いてなんぼ。随分と時間とお金を無駄にしてきたが得たものもある。遠回りして、時間を費やしてきたからこそ、言葉を獲得した。経験に裏打ちされたものだから揺るぎがない。活きた言葉。
そんな私には青春18きっぷはお似合いのようだ。これまでの経験則に合っている……降ったら降ったで雨の写真を撮ればいい。吹っ切れてきた。
11時36分、豊橋到着。新宿を出てから約5時間半、静岡を抜けて愛知県へ。
名古屋には12時42分に着いた。お昼にちょうど良い時間。何を食べるかは決まっている。
名古屋を訪れた際は毎回、きしめんを食べている。高級店でもなんでもない、駅のホームにある、立ち食いのきしめん。それがお気に入りだ。なんだろう?ささっとかっ食らえるところがいいのかな。麺類は高級である必要などない。庶民のファストフードたれ、と思っているところがあるので。安くて早くて旨いが最高である。それ以上があろうか。
炭水化物が好きで、普段からよく麺類を食べている身にとっては、きしめんの平べったい麺は、食感が違っていて新鮮。うどんときしめん、原料は一緒でも、形状が丸から平らに変わるだけでこんなに違う。しっかりと噛み切る感が増すように思う。丸麺の方がつるつると喉ごしがいい。
探せば、そりゃ東京でもきしめんを食べることはできるだろうが、わざわざ検索して行くほどのものでもない。ファストフードとは、普段の自分の行動範囲にある店に、ついと入ってさくさくとかっ込むもの。無理なく簡単に何度でも食べれるから、それがその土地で日常化してソウルフードとなり顔となる。名古屋を訪れた際の楽しみになる所以である。
ホームの端にある「住吉」に入って食券を買う。「蕎麦かきしめん。どっちにします?」と店のおばちゃんが聞く。聞き慣れたフレーズである“蕎麦かうどん”の二択でないところも、またいい。
揚げたての海老天と温泉卵がのった“ワンコインきしめん”を選んだ。ワンコイン。500円なり。値段のキリがいいのが気に入ったのと、店のお勧めと書いてあったのが理由だ。片意地張らずにある程度、状況にのっかっていくのが旅を楽しむコツ。それとビール。これも外せまい。列車の旅にはつきもの。ほろ酔いぐらいがちょうど良い。麺の上には大きめに削られたふさふさの鰹節。出汁と相まって風味が倍増する。するすると、すぐに平らげてしまった。満足なり。
13時30分、名古屋を出た。雨は非常に強いが、風はそれほどでもないので列車が止まる印象はない。大垣市周辺、岐阜から滋賀に入るあたりが一番雨に降られたように思う。
15時40分、京都市内に入った。雨は小降り。ここまで来たら、もう大丈夫だ。ゴールがイメージできてきた。京都に降りることなく、米原発、姫路行きの琵琶湖線新快速はそのまま進む。
大阪着。雨は完全に止んだ。台風は過ぎ去ったようだ。台風は15時頃、富山県に入った辺りで熱帯低気圧に変わったようである。過ぎてみれば案外あっけなく、ほんとに行けるのかと心配していた前日が、ヤマ場だったのかもしれない(笑)。
個人的には大阪は多少馴染みはあるが、隣の県とはいえ、大阪と和歌山はまるで違う。「近くて遠い」というのが私が暮らしていた30年前の印象である。最近は大阪、特に南部の人が和歌山を訪れる機会が増え、お互いの行き来は増しているようだが。他県の人にとっては、和歌山はやはり「海」という印象があるように思う。身近なリゾート地といったところだろう。関東に喩えるなら、東京と千葉の関係に似ている。
和歌山には高野山と熊野がある、山と信仰が密接に絡みついた地とも言えるだろうか。近頃はヨーロッパからの高野詣でも多いと聞く。
大阪から最後の電車に乗り、和歌山に向かう。途中半ばを過ぎた3分の2ぐらいのところに関西国際空港がある。2018年9月、台風21号の猛威により海水に浸ったあの空港だ。「普段利用している空港があんなことになるなんて」と、ニュース映像に大きな衝撃を受けた。今回の台風接近をとりわけ心配していた大きな理由だ。
紀伊半島は例年、台風被害に悩まされている。それは今に始まったことではなく、有史以来、おそらく人がこの地に住み始めてからずっと続いている。そんな風土が自然に対する畏怖を生み、アニミズム、自然崇拝に裏打ちされた信仰を形成していった面はあるだろう。
JR阪和線。最後は乗り慣れた電車だ。途中ふたりでうとうとしてる間に、枝わかれしている関西国際空港方面に行ってしまうという、この旅、最初にして最後のご愛嬌はあったものの、ここまで来ればもはや大した問題ではない。本線に向かってひと駅分、日根野駅に戻る。雨も止んで空も青いとくれば、気分は良い。
天王寺駅を出てから約1時間、大阪市街の喧騒を離れて高いビルもすっかりなくなり、昔ながらの民家も現れてきた。大阪平野も終わり、いよいよ大阪と和歌山を隔てている和泉山脈を越えて和歌山へ。電車の左右を緑の山々が覆う。列車は山間の谷間を抜けて行く。こんなところにも人家がというような場所も過ぎる。
しばらく走ると、視界が開けた。
山を抜ければ私の生まれ故郷、台風が過ぎ去った夏の和歌山だった。
18時10分、和歌山駅に到着。本当に12時間だった!
――つづく。
文・写真:井賀孝