息子が帰省する。当然、母は張り切る。手によりをかけて(お金もかけてね)、ご馳走をつくる。でもね、本当に食べたいのは、特別じゃなくて日常なんだ。わざわざ食べたい、無性に食べたい、何度でも食べたい。それは、母のつくる、子どもの頃から慣れ親しんだ味。そう、これこれ。あぁ、帰ってきて良かった。
駅から実家までは徒歩5分。もうじきアレにありつけると思うと疲れも吹き飛び歩調も軽くなってしまう。
名古屋のきしめんも、津山のホルモンうどんも、岡山駅のうどんや岩国のラーメンも良かったけれど、すべては今夜の夕食のためにあった気がする。
「電話もらってから思ったんだけど、たしかにアンタは昔っから、これ好きやったね」
母が運んできたのは、なすの煮浸しと高菜炒めである。僕にとっては、このふたつが実家メシの代表なのだ。
「こんなの、特別でも何でもありゃせんけどね。ほかにもいろいろ食べさせてきたつもりなのに、これがおふくろの味?まぁそんなもんかもしれんけど。あとは味噌汁とごはんやろ。ちょっと待っとき。いま運んでくるけん」
まずは煮浸しを箸でつまみ、アツアツの白飯にバウンドさせて口に運ぶ。ぐふふ、やっぱりこれだよ。生姜をたっぷり入れ、甘い香りとシャキッとした辛味が食欲を増進させるこの味で僕は育ってきたのだ。ありふれているけれど、ほかでは食べることができない。カミさんが何度挑戦しても同じようには仕上がらない。
高菜炒めもごま油が香ばしくて、ほかに何もなくても困らない実家の大定番。なすと高菜を交互にバウンドさせて食べるのは黄金のローテーション。このふたつがあれば、僕はいつでもゴキゲンだった。
が、母はどうしても納得できないようだ。
「河豚もあるけん、食べていきなさい。酢の物も」
考えてみれば、なすの煮浸しや高菜炒めはメイン料理ではない。その日のメインは別にあり、手間も時間もかけてつくっていたはずである。ついでにつくっていたような料理たちを、これぞ実家のメシだと言われたら戸惑いもするだろう。
でも、母がつくったなすの煮浸しや高菜炒めを食べるとき、僕はいつも思うのだ。
“オレ、実家へ帰ってきたんだな”、と。
――おしまい。
文:北尾トロ 写真・動画:中川カンゴロー