快楽と苦痛。人の脳裏に深く刻まれるのは、どちらだろう。たとえば誰かを慰めるとき、嫌なことは早く忘れた方がいいよ、なんて声をかけることがあるけれど、それは嫌なことが記憶に残りやすいことの裏返しなのかも。生きていれば、いろいろある。いつか笑いとばせる日がきたら、苦痛は快楽に変わったということなんじゃないかな。
10年以上も前の話になるのだが、日本家屋の縁側できゅうりやトマトなどの夏野菜を冷やして食べながら酒を飲む、という光景を何かの雑誌の企画だか、広告だったかで撮影したことがあった。
こぢんまりとした目黒の一軒家の庭で、縁側方向に向かってカメラを向ける。庭の端の生け垣から縁側までの距離が近く、レンズの画角がギリギリで背中を椿の木にくっつけて汗だくで仕事を終えた。
おつかれさま、と皆と別れて事務所へ戻り、しばらくすると何だか背中がチクチクする。そして時間が経つにつれ猛烈にかゆくなってきて掻きむしってしまった。かゆみは増していく一方で、収まる気配がないまま夜になり、一睡もすることが出来ず、翌日に病院へ行ってみると「いや、こんなに立派な気触れは久し振りだ」と年配の医者は唸っている。
いや、立派どころじゃないんですけど、こっちは。椿の木にいた茶毒蛾の幼虫の毒針毛にやられてしまったらしい。最初にかゆみを感じたときにそうと気づかず、Tシャツの上から何度も掻いてしまったことによって、Tシャツに付着していた毛を皮膚に擦り込むことになり、より悪化してしまったのだ。10日間近く背中に違和感を覚え続け、いまでも椿の木は好きではない。
これからの人生で病気になったり怪我をして、いろんな痛みを身体に感じることもあろうかと思うのだが、あの追いつめられたような、地に足がつかない、どんなことにも集中できないかゆみは二度とゴメンである。
そういえば悲しい出来事があったり、親しい人を亡くしたりしたときに、心の痛み、魂の痛み、ということをいうけれど、魂のかゆみ、というのはどうなんだろう?
本人はつらくて大変なのだが、かゆい、っていうのは、痛いよりもややコミカルですよね。心のかゆみを感じるシチェーションって、きっとあるはずなんだけど、ちょっと具体的は話は難しいですね。
夏の自然の驚異、いや脅威の想い出。
――明日につづく。
文・写真:大森克己