江戸前鮨の代表格のひとつ、穴子。ふっくらとした身、ツメと相乗する旨味が格別であるのみならず、「㐂寿司」の穴子は泥臭さを微塵も感じさせない。なぜこんなにも安定して究極の握りを出せるのか?その秘密を追う。
江戸前鮨のメインディッシュは穴子である。東京随一との呼び声が高い「㐂寿司」の穴子を食べるとあらためてそれを再認識する。
その瞬間は食事のラストに待っている。最後に穴子が控えているというだけで、俄然、食欲が増すのは不思議なものだ。
「㐂寿司」の穴子は明らかに他の店とは違う。
まず、穴子そのものに味がある。香りがある。身も厚い。
穴子そのものに脂が乗っているのはもちろんだが、穴子の泥臭さを微塵も感じないのだ。
口の中に入れると酢飯の上で穴子が絶妙な加減でほどけてゆく。
酢飯と穴子とツメが渾然一体となった次の瞬間、穴子は溶けてなくなり、後を引く、穴子の濃厚な旨味の余韻だけが残る。
江戸前鮨、ここに極まりけり。
満ち足りた口福を噛みしめながら今日の食事をしみじみと振り返る。
江戸前鮨の世界では、穴子は「煮穴子」と呼ばれ、マグロと並ぶ鮨種の筆頭だ。本来、江戸前鮨の技法は、塩や酢で〆るに始まり、今日のように冷凍技術や保存技術、輸送手段に恵まれない時代の、まさにすばらしい発明だ。穴子を「煮る」ことで、鮨に特化した非の打ち所のない鮨種に生まれ変わることを発明した先人の知恵には頭が下がるばかりである。
江戸前の仕事を現代に継承する「㐂寿司」も、マグロと穴子には並々ならぬこだわりを持つ。四代目の油井一浩さんも、父である先代に固く言いつけられたことがあると語る。
「マグロと穴子の仕入れ先は絶対に変えるな。うちの生命線だからな。この2つだけは絶対に切らしたらダメだと、言いつかっています。江戸前の仕事云々の前に、素材そのものの良し悪しにかかっているということ。マグロと穴子の仲買には必ず、毎朝、顔を出しますし、買わない日は休みの日以外ありません」
「㐂寿司」が穴子を仕入れるのは豊洲市場にある「山五商店」という店だ。
初代の名前が山﨑五郎、だから「山五」。江戸前の鮨や天ぷらに欠かせない「小物」と呼ばれる魚介類を扱う名店である。
一浩さんを見つけた女将の山﨑由比子さんの伸びやかな声が店内に響き渡る。
「銀座さーん、おはようーござーます」
その声をきっかけに10人ほどの店の従業員が、一浩さんに挨拶を投げる。
この「銀座さん」という呼び名にも、ちょっとした逸話がある。
まだ河岸が日本橋にあった頃、河岸には潮待ちをする茶屋が何軒もあった。その茶屋に各店のための荷物が集められており、そのうちの一軒「中央自転車」という茶屋を「㐂寿司」は贔屓にしていた。
当時、「㐂寿司」は銀座で割烹も営んでおり、「中央自転車の銀座」が通り名だったのだ。
それの通り名が、時代を経た今もなお「山五」では親しまれているというわけである。
店の脇には水槽がある。その横の木桶の前に立つのが、「㐂寿司」の穴子を扱っている専務のだいちゃんこと山﨑大輔さんだ。壁には東京を代表する天ぷら、鮨の名店の名が書かれた伝票がズラリと貼り出されている。
一浩さんは大輔さんに近づくと、こう声をかけた。
「今日のどこ?」
「内湾ですね」
会話はそれでおしまいである。数ある穴子の中でも内湾、つまり東京湾で獲れたものは、夏の時期の穴子の最高峰だ。長崎・対馬や韓国で獲れた西の穴子が入ることもある。
「うちで仕入れるのは1匹あたり、130gから150gのもので、1匹の穴子から基本3貫取ります。まれに小さいものは尾の部分を折り込んで握って2貫取ることもあります。山五さんとの付き合いは長いので、うちの好みをわかってもらっています。だから、あれこれ言うことはありません。選んでもらったものを、黙って持ち帰ります」
すると、大輔さんがこう返す。
「怖いんですよ。先代の旦那とか、品物が悪かった時は態度ですぐにわかるんです。もうピリピリしてますから。けれども、よかった時はちゃんと声をかけてくれる。嬉しかったですね」
穴子の良し悪しはどのようにして見分けるのだろうか。尋ねると、大輔さんは目の前の木枠の水槽から目の細かい網をひとつ引き上げると、木製のたらいにその中身をぶちまけた。現れたのは200匹ほどの穴子だ。鮮度がよっぽどいいのだろう。たらいから逃げ出そうと蛇のように鎌首をもたげている。
「穴子は頭が小さく胴が太いやつがいいんです。腹の部分が極端に膨れているのは餌をためている証拠だからダメ。穴子は天然だから同じ大きさは2つとしてない。それぞれお店によって使うサイズや好みが細かく違うから大変なんです」
大輔さんは暴れる穴子をひょいひょいと慣れた手つきで選ってゆく。穴子には鰻同様のぬめりがあるので、素人には掴むことができない。野生の穴子は目玉が大きく精悍な顔つきをしている。そして、意外にも歯が鋭く獰猛なのだ。
「山五」では毎日、100kgの単位で穴子を仕入れ、市場の自家用水槽で生かしておくのだという。そして、数時間をかけて、産地、大きさ、鮮度、脂の乗り具合などを念頭に客の顔を思い浮かべながら選ってゆくのだという。
「㐂寿司さんに納める穴子はとくに気を使います。よくて100本に1本、悪い時には200本に1本。そんな感じなんです。だから20本を出そうと思うと、最低でも2,000本以上の穴子を触ることになる。悪天候が続くと、思い通りに出ない日もある。質のいい穴子そのものが減っているので、まるで宝探しですよ」
本日仕入れたのは東京湾産の穴子15本。これを活き〆の状態で一浩さんは持ち帰った。
そこから、「㐂寿司」の伝統的な煮穴子の仕事が始まる。
――明日につづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿