写真家の大森克己さんの連載、シーズン2です。生きているという実感が教えてくれる喜びや悲しみ、安堵や不安、驚きや発見の先にあるもの、それは目に見えないけれど、心に引っかかったまま時を刻んでいき、あるとき何かをきっかけにして、意識の中に呼び起こされたりします。たとえば、桜。
毎年、桜が咲く季節になると、時間の速度について考える。
自然が変わりゆく様や世の中の動きと自分の身体がシンクロするときと、いまひとつ合わないように思えるときがあって、というか自分の時間と自分以外の時間の流れが同じものであるのかなんて、実は確かめようもないのだが。
たとえば家の前の桜の花が咲いたときに、そのことをごく自然に受けとめられるときと、そうじゃないときがある。
今年は何故か桜の花が咲く時間に追いついていない自分がいる。同点のままロスタイムに突入したサッカーの試合で走り続けている感覚のような。やるべきことや、片付けなければならない用をさぼっているのかな?
いいえ、そういう側面もあるにはあるが、時間の方が速すぎる、ということが嘘であるとも思えない。
まあサッカーの試合は90分と決まっているのだけれども、人生の終わりは自分で決めれない。
そういえば、2011年の春にはあまりにも急激な大地の変化を直接に身体で感じていたからか、けっこう長い間、時間が止まっていたようでもありました。
よく知っているはずの街が計画停電のため真っ暗で、場所を移動する感覚の不思議さも感じていたっけなあ。
地下鉄やバスの中で隣に座っている知らない人の体温をあんなに生々しく感じることはそうそうない。
1週間ほど自宅が断水したせいで、千葉県八千代市の親戚の家に娘を預けに行く途中、久しぶりに入ったコインランドリーで洗濯物の乾燥を待っている間、田植え前の田んぼをぼんやり眺めていたことを何故かしっかり憶えていたりする。
先日観た映画「運び屋」ではクリント・イーストウッド演じる老主人公が「金で買えないものはなかったが、時間を買うことだけは出来なかった」みたいなことを言ってました。
ボクの好きなシューベルトの弦楽四重奏第14番ニ短調D810「死と乙女」の第1楽章、1979年録音のイタリア四重奏団のCDは12分32秒、2017年のキアロスクーロ・カルテットの録音は15分01秒。どちらも速度指定はアレグロです。
――明日につづく。
文・写真:大森克己