料理界のピカソ。ときに、ピエール・ガニェールという料理人はそう評されることがある。自由で前衛的な発想、異端でありながら正統な一皿は長きにわたって、多くの人を魅了してやまない。来日を果たしたシェフに聞いた、生涯一料理人の人生について。
1950年、フランス生まれ。料理人。パリ8区のバルザックにある三つ星レストラン「ピエール・ガニェール」をはじめ、世界各国で23店舗を展開するオーナー・シェフ。日本は2005年から2009年まで東京の青山、2010年3月より「ANAインターコンチネンタルホテル東京」36階に店舗を構える。分子ガストロノミーの考えを取り入れるなど、アグレッシブに料理と向き合い続ける、世界的にも影響力の強い料理人のひとり。
1950年4月9日、フランスは中東部のロワール県アピナックに、未来の天才シェフが生を受けた。
料理人の両親を持つ4人兄弟の長男として生まれたピエール・ガニェール氏その人である。その境遇を見れば、まさに料理人になるべくしてなったと言ってもいいだろう。自身も次のように語っている。
「地方で生まれ育った私の周りには、当たり前のように農家があり、目の前にはいつも豊かな田園風景が広がっていました。そんな生活環境を享受する中、料理人の家に生まれたこともあって、物心ついたときには自然に料理人になることを考えてたように思います。そう、常に私は料理人でしたね」と。
初めての修行先はリヨン。15歳のときだ。「ポール・ボキューズ」「シェ・ジュリエット」やカジノのレストラン「シャルボニェール」などの有名レストランを経て、次にその目はパリへと向けられた。インターコンチネンタルホテルや「ルカ・キャルトン」などの一流レストランの門戸を次々と叩くも、いずれも短期間で辞めている。
天下の「ポール・ボキューズ」でさえたった2カ月。その理由を問うと、こんな答えが返ってきた。
「昔ながらのやり方がどうにも納得できなかったし、興味も沸きませんでした。なんとなくここは自分の居場所ではないなと思ったんです」
ガニェール氏がパリで修業していた1970年代初頭といえば、折しも“ヌーベルキュイジーヌ”なる新しいフランス料理の動きがフランス料理界を席巻し始めていた頃。ボールボキューズをはじめ、当代の一流シェフたちが打ち出したその新しい料理スタイルは、それまでの手の込んだ伝統的な料理に比べ、より軽やかで素材の味わいを活かすことを特徴としたものだった。
ガニェール氏の、当時を振り返り語ったひと言が興味深い。
「ちょうどヌーベルキュイジーヌが台頭してきた頃、ひとつの重要なイベントがありました。1970年の大阪万博です。このとき、ボール・ボキューズやジャン・トロワグロといったフランス料理界の巨匠たちが日本を訪れ、日本料理に触れる中でさまざまなインスピレーションを受けました。それまでのフランスにはなかった新しいものを日本で見つけたのです。それは、(日本料理の)綺麗な料理の飾り方であったり、器の美しさでした。このとき、ふたつの国の文化が融合したのです。そしてまた、日本人もフランス料理をすぐに理解し、受け入れました」
現在、再び、日本料理とフランス料理が互いに感化しあう関係を思えば、フレンチと和食の深い絆を感じずにはいられない。
20代前半の多感な時期に、こうした動きに触れたことはガニェール氏の料理哲学に少なからず刺激を与えたのではないかと考えるのは、穿った見方だろうか。
「クラシックなフランス料理の枠にとらわれることはない」――漠然と頭の中にあったそうした思いが、確信となっていったのかもしれない。
「25歳ぐらいのとき。トゥルトゥールにいて、“なんか僕、自分の料理を表現することができるんじゃないかな”と、ふと思ったんです。暗いトンネルの向こうに何かがある、明るい何かが見えている――そんな感じでした。もちろん金銭的には難しかったですが、自分の思いや感性を料理を通してあたかも詩や音楽のように表現することができるのでは?そう考えることができました」
それは、まさしく時代の要求に即したものだった。
ガニェール氏自身も語っているが、この時代、食事をする行為自体の有り様が次第に変わりつつあった。ただ食べるのではなく、ひとつのエモーションを持たせるようになってきた。劇場で音楽や演劇を楽しむように、料理を通して感動を与える。料理人の感性を通して創り上げられるひとつの芸術として、料理をとらえようとする考えが少しずつ芽生え始めていた。これこそが、ガニェール氏が求めていたものだったのだろう。
そう、時代がやっとガニェール氏に追いついてきたのだ。
1976年、26歳のガニェール氏は父親が営むレストラン「ル・クロ・フルリー」で働き始めた。その翌年に店を引き継ぐや、ミシュランの一つ星を獲得する。ガニェール氏の考える新しい料理が認められたわけだが、その天性の閃きが形となって具現化されるようになるまで、悶々とした思いで過ごす日々もあったようだ。
そうしたガニェール氏の自由な料理へのイマジネーションは、いったいどこから沸き起こってくるのだろうか。
「日常的な仕事と対峙し、ぶつかっていく中から生まれてきました。ですから、当初はとても大変でしたね。私自身、アイデアは次々と浮かんでくるものの、それをきちんと組織だてることができなかったし、表現するには自分自身も充分に成熟していませんでした。そう、それは、まさしく自分自身との戦いであり、ファミリーとの戦いであり、また、お客様との戦いでもあったのです」
この答えを聞いたとき、ガニェール氏の脳と舌には、若い頃から、いや、ひょっとしたら子供の頃から、確固たるおいしさの価値観が出き上がっていたのではないか――そんな思いがふと頭をよぎった。
この若き鬼才をいち早く見出したのが「ゴ・エ・ミヨ」。「ラッキーなことにね」。ガニェール氏はそう言って微笑んだ。
――つづく。
文:森脇慶子 撮影:湯浅亨