初代マスターの田原昂さんが焙煎にのめり込んでいく中で、「蘭館」はどういう道のりを辿ったのでしょう。昂さんの毎日は、珈琲一色でした。珈琲をその手に摑みたくて、孤軍奮闘した結果、見つけたものは何だったのか。「蘭館」の歴史を語るうえで大切な物語をお届けします。
自分が求める味に到達するため、来る日も来る日も挑み続けた昂さん。しかし、開店から数年が経っても、出口の見つからない迷路を彷徨う日々が続いた。今日いいのが焼けたと思っても、翌日にはできない。一釜一釜、同じように焼いているのにまったく違う味になる。悩んで疑心暗鬼になればなるほど、焼けない日々がしばらく続く。自信喪失。
半熱風式では世界一といわれる「ドイツ製のプロバット焙煎機なら、悩みもなくなるとけど」と言い続けていたそうだが、当時は関税率100%の時代。どこでどう買えばいいかもわからなかったし、そもそも個人店が手を出せる値段ではなかった。
業界の研究が進み、世界的な味の共有化がはかれる現代であれば、状況は違っただろう。生豆の品質、焙煎機の選定によっては、望む味に到達できたかもしれない。けれど昭和50年代の珈琲業界には、個人店にとって未開拓の部分があまりにも多かった。
昂さんは、豆を焼くたびに、温度上昇や排気調整ダンパーについて、焙煎のことなど何もわからない妻である順子さんに切々と説明していたという。自分に言い聞かせ、納得したかったのか。
やがて、30代を迎えた昂さんは、こんなことを口走るようになっていった。
「俺が豆になってくさ、焙煎機の中で焼かれてみたら、豆にどんな変化が起こりよるか、わかるとやけど。美味しく焼くための法則が絶対にあるはずなんやけど、それがわからん」
そのときの悔しそうな表情を今も覚えていますと、順子さんが当時を振り返る。
「主人はものすごく親思いの人なんですけど、あるとき、こう言ったんです。俺はね、親が危篤とか言われても、珈琲が上手く焼けんかったら、駆けつけんで豆のことで悩んでいるかもしれんって。この言葉でわかるでしょう、どれだけ主人が焙煎に心酔していたか」
メンタルが弱かったといえば、それまでかもしれない。だが、これは何も昂さんだけの話ではない。喫茶店の取材をする中で、焙煎がうまくいかず、精神を病む寸前まで追い込まれたという話をよく耳にした。このままでは頭がおかしくなるという危機感から、無理矢理、ゴルフや釣りなどの趣味を持つようにしたという店主もいた。
根が生真面目で、気持ちが熱く、珈琲が好きであればあるほど、足をとられてしまうのだ。昂さんもまたそのひとりだった。
「いらっしゃいませと、ありがとうございます。その2つだけ言っていれば、あとは珈琲の力で支持される店にしたいというのが主人の夢だったんです」
しかし、現実の喫茶店は、濃厚な接客で成り立っている。都会ならいざ知らず、顔見知りが多い地方都市の喫茶店であれば、珈琲の味よりも接客が優先されるのは致し方ないだろう。もちろん、両者の二本柱がベストだが、そのためには何十年もの歳月が必要だったのだ。
テキパキと明るく場を盛り上げる接客担当の順子さんに対して、珈琲豆のクオリティという一点のみで自分の存在感を示そうとした昂さん。夫婦ふたりで開いた「蘭館」が開店10周年を迎えた日。店を愛する多くのお客さまによる盛大なお祝い会が開かれたその数日後、昂さんは36歳という若さで逝ってしまった。
珈琲、家族、仲間、そして自分自身の未来、たくさんの大切なものを遺したまま。
昂さん亡き後、順子さんは、休業中で静まりかえった「蘭館」に足を踏み入れた。想い出がつまったこの店。もう二度と立てないと思っていたカウンターに入り、自分のために、ゆっくりとネルドリップの珈琲を点てた。白い湯気、懐かしい香りに包まれた瞬間、ああ、自分の居場所はやっぱりここしかない、そう心の底から思えたのだという。
当時、現マスターで一人息子の田原さんは、まだ中学生。店に立ち続ける母を思うたび、自分の力のなさを痛感したという。
当初、店を継ぐつもりはなかったが、あるとき、アルバイト含めて全員が女性メンバーになったのを機に、男手があった方がいいだろうと勤務先の百貨店を辞めて、家業に入ることにした。
創業当時から通うお客さまによれば、亡き父の昂さんと、田原さんは瓜二つらしい。二枚目俳優のような濃い顔立ちも、両手にすくいあげた焙煎豆を見つめる真剣な眼差しも、好きな珈琲をとことん追求する性格も。
息子の田原さんにバトンタッチするまでの約15年間。順子さんは持ち前の明るさとチャレンジ精神でもって、グルメ珈琲など20種類以上もの豆を焼き続け、多くのアルバイト生と一緒に年中無休でカウンターに立ち続けた。1列に並んだ豆容れの瓶は、当時と同じものを使っている。
それにしても、順子さんという人はスーパーウーマンだ。自分の手で焼いた豆をネルドリップで一杯一杯。顔をあげ、前を向き、文字通り、腕一本で息子を育てあげたのだ。
「自家焙煎の看板を掲げているでしょ。メーカーの豆を使ったら、偽りになると思ったんです。自分で焼いた豆と比べてみたらね、私の方が鮮度がいいし、美味しいと思ってね。だから、焙煎のことはよくわからんやったんですけど、昨日より今日、今日より明日って、見よう見まねで焼いていけば、何とかなるかなと思ったんです」
このシリーズのタイトル「昨日より今日、今日より明日」は、順子さんのこの言葉からいただいた。哀しみを癒す日にち薬と同じく、地道にコツコツと歳月を重ねることで見えてくる世界がきっとある。
初代が成し遂げられなかった夢を、二代目が引き継いだ今。亡き父への思い、そして自身の今と店の未来について、田原さんはどう考えるのか。
――つづく。
文:小坂章子 写真:長野陽一