店に歴史あり、人に歴史あり、珈琲に歴史あり。創業した昭和53年から、平成を経て、次の新しい時代へ。3つの時代を生き抜くことになる「蘭館」は、マスターの田原昂さんとママの順子さんによって産声をあげました。25歳と24歳の若い2人が日々何を思い、珈琲や店づくりと向き合っていたのか。今に至る大切な原点がそこにありました。
「蘭館」創業当時、店の様子や珈琲の方向性は、どんなふうだったのか。順子さんの話によれば、開店1年目は、メーカーから仕入れた豆を使っていたそうだ。地域密着店として個性を出すため、自家焙煎に転向したのは2年目からである。
当時、焙煎の指導をしてくれた方が「地元で商売していくなら、半熱風式の釜にしなさい」と助言してくれたこともあり、焙煎機はフジローヤルの半熱風式3kg釜を手に入れたという。
その背景には、メーカーの豆の多くがその頃は半熱風式の釜で焼かれていた、という理由が大きかったのだろう。
焙煎士の個性が活きた苦い珈琲をつくりたいなら、直火式。逆に、誰もが飲みやすいと感じるスッキリと優しい味わいなら、半熱風式。後者の釜を選んだ初代マスターの田原昂さんは、都会で流行っていた深煎りではなく、ストレスの少ない地元の人にも受け入れられる浅煎りの焙煎を志したというわけだ。
20代半ばの若い夫婦は、焙煎を始めると同時に、東京の「カフェ・ド・ランブル」「自家焙煎もか」などの名店を巡る旅に出たり、昭和45年に柴田書店から創刊された『喫茶店経営』という雑誌で独学を始めたり。
店はもちろん、家に帰っても、休日でも、夫婦の話題は、珈琲一色。太宰府で珈琲を飲むなら「蘭館」と認知される店にしようと、夢を膨らませていた。しかし、希望に燃えたゼロからの出発は、同じくらいの困難を抱えることでもあった。
順子さんが想い出すのは、いつも「焼けん、焼けん」とブツブツと呟きながら、両手にすくった焙煎豆を前に思いつめた表情で焙煎室にしゃがみ込む。そんな昂さんの姿である。焙煎の経験がない順子さんからしたら、「焼けん、焼けんって、この人は頭がおかしいとやないやろうか。普通に焼けとるやない」と、理解できなかったのも無理はない。
ゴミの日になると3、4袋もの焙煎豆が廃棄された。中を見てギョッとした順子さんが「これ全部、捨てると?もったいないやない」と言ったら、「いいぜ、もったいないなら出しやい。店が潰れていいならね」と、返してきた昂さん。自信がない頃は、自分が焼いた豆を捨て、店ではメーカーの豆を出していたというから、よほどである。
これくらいでいいだろうという甘い考えを嫌う、根からの職人気質。味覚に関しても神経質だったのか、または掲げた理想が高過ぎたのか。珈琲を飲んだ客の何気ない一言にも過敏に反応し、顔色がサッと変わることもしょっちゅうだったという。
そのたびにどんなに店が忙しかろうと、焙煎室に閉じこもって出てこない。または徹夜で焙煎した明くる日は倒れてしまい、喫茶営業どころじゃない。
順子さん自身、昂さんに落ち込まれると仕事にならないので、味の感想を求められても「美味しい、美味しい」と即答するようにしていたというから、なんだか切なくなる。
自分が焙煎した珈琲を、目の前で飲んでもらうとは一体どういうことか。ライターの自分の立場に置き換えてみれば、その厳しさがよくわかる。やっとの思いで書き上げた原稿を目の前で読まれて、その日その時の気分次第で、好き勝手な批評をされるようなものである。想像しただけで、両足の指先が縮みあがる。
納得いく珈琲豆が焼けず、自己肯定ができないままカウンターに立つ毎日は、昴さんにとっては、針のむしろにいるようなものだったのではないだろうか。
――つづく。
文:小坂章子 写真:長野陽一