珈琲の物語を紡ぐ前に、エッグサンドの物語からはじめましょう。「珈琲蘭館」は喫茶店ですから、訪れる多くの人が珈琲を注文するのは当然として、エッグサンド率も非常に高いんです。薄〜くカットされた食パンに、ふかふか、ほかほかの卵焼きが挟まれた、その姿を見るだけで愛おしい。頬張れば、美味しい。珈琲よりも、卵が先です。
由緒正しき昭和喫茶「珈琲蘭館」に通い始めて、足掛け10年。嬉しいとき、哀しいとき、いい仕事ができたとき、自分への労いを込めて訪れる大切な喫茶店だ。
西鉄太宰府駅から、太宰府天満宮の参道とは逆向きに3分ほど歩けば、手描き感満載の大きな看板が見えてくる。梅大路交差点の横断歩道に差し掛かると、無意識に店の前の駐車場を確認する。大きな黒い高級車はママ、隣の小型車はマスター。両方あると、なんだか嬉しくなって、早く信号が変わらんかなあと小学生のように足踏みしてしまう。
openの札がかかった扉を開けば、カウベルがまるっこい音をたてる。
「こんにちは〜!」「いらっしゃいませ〜! はあい、どうぞ」
カウンター手前に田原順子ママとバイトのみーちゃん、そして奥には、2代目マスターの田原照淳(てるきよ)さん。小さな真珠のイヤリングをつけた順子ママ、今日もキレイ。「まあまあ、お久しぶりですねえ」と、笑顔を浮かべつつも手は止めない。せっせせっせと、今日も卵焼きをつくっている。
私は、マスターの田原さんのネルドリップ抽出をかぶりつきで見られるカウンター端に陣取る。ここなら座ったまま、すぐ隣の本棚の分厚い女性誌に手が届くし、田原さんとゆっくり話ができるし、トイレも近いのだ。
創業1978年。40年選手なんですね、あなたも。私もそうです、いつのまにやら……なんて遠い目をして、ストレッチがてら首を真上に反らせば、天井一面に張り巡らせた赤紫のベルベット生地が目に入った。いいねえ、どこもかしこも昭和ゴージャス。
水が運ばれてきた。席についただけで満足していたけれど、そうだ、注文しなきゃ。ビニールでコーティングされた手描きメニューを開くまでもなく、私はまず季節のブレンドを頼む。春珈琲、夏珈琲、秋珈琲、冬珈琲。田原さんがそのときに手に入る豆でつくるとびきりの一杯だから、これを逃す手はない。とりわけ秋は、「あきこーひー、ひとつね!」と注文が入るたび、「あきこ」「あきこ」と自分にオーダーが入るようなもんで、少々にやけてしまう。
お腹がすいていたら、ぜひエッグサンドを注文したい。焙煎豆の瓶の上にサンド用の皿がずらりと並ぶ様は、壮観だ。主なつくり手は、順子ママ。狭いカウンターを舞台に、常連客とお喋りしてはケラケラ笑い、クルクルと踊るように立ち働く。ピンと伸びた背筋は、華がある。さすが社交ダンス歴9年。
「あのネ、サンドイッチでいちばん大事なのは、パンがやわらかいってことなんです!」
鮮度が大事だから、うちは毎日届けてもらうのと話す順子ママが、長さ1mの食パンを5mm幅にスライスしていく。使うのは包丁一本。順子ママの指が瞬時に感知し、動くのだろう。人間の能力ってすごい。
「最初は失敗して何枚も捨てていましたよ。今でこそ、ササササッと切れるようになったけど」
「新しいパンはふわふわっとしてるでしょ、そこに焼きたての卵を入れると、より美味しいんです」
エッグサンドの主役は、あくまで卵。卵を美味しく食べるために、上下のパンの薄さがあるという話に深く頷きながら、待ちきれずにかぶりつく。ああ、もはや「おふくろの味」である。皿の上には、2個ひとかたまりで4つの山が並んでいる。ひと山を一気に食べる人もいるが、真ん中で分ければ8回分の口福を体験できる。持ち帰りも可能だが、店でつくりたてを食べるのがいちばんだろう。
エッグサンドは、今は亡き田原さんの父であり、順子ママの夫である初代マスターの昴(たかし)さんが、修業先の「海門」(福岡市西新にあったが閉店)で、ネルドリップ珈琲と共に受け継いだメニューである。
「最初は、主人が店で習ってきたからって家でつくってくれたんです。だけど開店してから、フライパンの卵をひっくり返したら、珈琲のカスを捨てる箱にポーンって入ってね(笑)」
順子さんの手には、修業先に倣い、ロングスプーンが一本。箸でもなく、フライ返しでもなく、喫茶店ならどこでもあるそれで、ふわっふわの卵を手際よく何枚も焼きあげるのだから、感心してしまう。
2人前で卵4個。アツアツ卵を、ケチャップとマヨネーズを塗ったパンに挟み、2段重ねして四つ切りすれば、出来上がり。「特別なことは何もしてないんですけどネ、卵だけはこだわってます。筑紫野市の原田(はるた)の卵は、飼料が違うらしいですよ」と、順子ママが自信たっぷりに話す。へえ、なんという養鶏場ですか。何気なく聞いたら、「ええっと、どこらへんかね? いつも持ってきてくださるから」と、照れ笑い。すかさず「知らないって、こだわってないやない!」と息子から突っ込まれ、カウンターは笑いに包まれたのだった。
香りゆたかなネルドリップ珈琲と愛情いっぱいのエッグサンド、ざっくばらんな博多弁の親子漫才喫茶トーク。一度訪れると、根っこが生えてしまう理由がわかっていただけただろうか。もちろん、私が「蘭館」を好きな理由はほかにもある。次回は、この店の看板である珈琲について書いていきたい。
文:小坂章子 写真:長野陽一