「おにぎりの本当のおいしさってなんだろう」。その答えを求めて写真家・阪本勇は旅に出る。シリーズ第3回目は、東京に住むTD、ミチコさん夫妻宅を訪ね、ミチコさんの地元・愛媛県松山市のソウルフードであるタコ飯をおにぎりにしてもらった。
インスタグラムから垣間見えるふたりの生活が好きだ。器をひとつひとつちゃんと選んで丁寧に準備された朝食、ゆったり楽しんだであろうコーヒーの時間。大量生産できるものがあまり好きじゃないというふたりが選び、大切にし続けているものたちに囲まれた生活。
ミチコさんは愛媛県松山市垣生町で生まれ、大原家の3人姉妹の長女として育った。家は海からすぐで、近くには今出港があった。お母さんがおにぎりをにぎって、縁側にゴザを敷いて一緒に食べた。目の前には菜の花がたくさん咲いていて、黄色い風景を憶えている。それがミチコさんのおにぎり原風景。
お父さんはよく海へ出かけ、タコを釣って帰ってきた。シーズン中は週に数回、早朝から家を出ていって、数匹のタコを持って帰ってきた。食卓にはタコ飯、タコの天ぷら、タコの酢の物や、湯がいたエビなんかもよく並んだ。地元の人は、それぞれ独自の仕掛けを持っていて他の人には教えない。人によってはタコ壺を使っている人もいたのかもしれないが、ミチコさんのお父さんは壺も竿も使わずに、テグスだけで釣った。仕掛けをつけたテグスを右手に2本、左手に2本ずつ持って、揺れる小さな船に乗って海に出る。冷凍庫には「エサ」と油性マジックで大きく書かれたジップロックの中に、新聞紙に包まれた鶏や猪の油があった。小さいカニなんかも餌に使っているようだった。
シーズン以外は冷凍しておいたタコを使った。冷凍庫を開けたとき、カチコチに凍ったタコが滑って、足の上に落ちて痛い思いをしたこともある。上京してからもしばらくは、よく冷凍タコを送ってもらっていた。
料理はお母さんがした。行事ごとを大切にする家だったので、よく親戚が家に集まった。そんなときはお父さんが釣ってきたタコを振る舞うことが多かった。タコ飯は一度に大量につくって、残りはおにぎりにして次の日に食べた。お父さんはそれに白湯をかけて食べていた。「大原家のタコ飯は、醤油も油揚げも松山のものじゃないといけない。特に油揚げは程野商店の松山あげじゃないといけない」らしい。目の前でタコ飯をにぎってくれているミチコさんに「今日も程野商店の松山あげなんですか?」と聞くと、当然でしょうと言わんばかりに「もちろん」とうなずいた。
「こうしてみっちゃんが、自分のルーツにあるものをつくってくれるのがうれしい」とTDが言った。TDは大阪府高槻市で生まれ、今は東京でアパレル関係の仕事をしている。みんながTDと呼んでいるので僕もそう呼んでいて、本名が多田だというのはあとで知った。
TDが子供のころ、お母さんがつくってくれたおにぎりは大きな大きな球体で、全面に海苔が巻かれて真っ黒だった。周りのみんなのおにぎりは、きれいに三角の形をしたものが多かったし、白い面積が広くてカッコよく見えた。まるで爆弾のような黒々とした自分のおにぎりが嫌で嫌で仕方がなかった。中の具は決まって梅だった。
梅は食材が傷むのを防止することとか、海苔が消化を助けることは大人になってから知った。健康診断などでは決まって「多田さんは丈夫ですね」と言われるほど、大きくて丈夫な体に育った。お母さんに感謝しているけれど、やっぱり今でも海苔と梅はあまり好きじゃない。逆にミチコさんは海苔も梅も大好き。そういうことはほかにもあって、TDは牛乳が大好きなのに対し、ミチコさんは大の苦手。洗ってもかすかに残る匂いが嫌で、牛乳専用のコップを決めている。
ふたりは、ほかに替わりのない一点物の陶器が好きで、食器棚にはたくさんの陶器の器が並んでいる。割れてしまったら替えがないので、ミチコさんはそのために金継ぎを習いにいって学んだ。少し前に近所から今の場所へと引越したとき、自分たちの大切な器を業者には任せてられないと言い、ミチコさんは小さな体で器たちを担いで歩いて運んだ。
「贅沢はしなくていいから、ちゃんと生活をしたい」というミチコさん。高価か、流行りかではなく、ものを選ぶ基準はしっかりと自分にあって、そして自分で選んで手にしたものはずっとずっと大切に愛する。そんなふたりのとても豊かな生活に僕はずっと憧れている。
文・写真:阪本勇