焼酎の教室
大注目!焼酎界のエジソン、柳田正さんが特別講師として登壇!宮崎・都城きっての古い歴史を持つ、柳田酒造とは?【焼酎の教室・第2回/1限目】

大注目!焼酎界のエジソン、柳田正さんが特別講師として登壇!宮崎・都城きっての古い歴史を持つ、柳田酒造とは?【焼酎の教室・第2回/1限目】

今、間違いなくキテいる焼酎のビッグウェーブ。注目すべきは、フルーティ、ミルキー、スモーキー、紅茶や麦チョコなど、新しいアプローチで表現される鮮やかな香りだ。今の焼酎シーンを牽引している1人が宮崎県を代表する「柳田酒造」の代表、柳田正さん。工学部出身でエンジニア経験もあり、蒸留機を自ら魔改造することから、焼酎界のエジソンと呼ばれる。彼の代表作、麦焼酎「赤鹿毛」「青鹿毛」、芋焼酎「千本桜」、そして2回蒸留という新機軸を打ち立てた「pentatonic」シリーズまで。今知りたい「柳田酒造」のすべてを聞きました。

教える人

講師 テツさん(渋谷「嚏(アチュー)」店長)

講師(第2回):柳田正さん(やなぎた・ただし)

1973年、宮崎県都城(みやこのじょう)市で最も古い焼酎蔵「柳田酒造」の四代目次男として生まれる。東京農工大学大学院を卒業後、富士ゼロックスに入社。エンジニアとして4年勤務の後、2001年に家業を継ぐため、帰郷。2010年に五代目代表取締役に就任。

島津家ゆかりの地・都城は交通の要衝で発酵業も盛ん

柳田正さん

焼酎の蔵元が一堂に会するイベントを訪れると、いつも長蛇の列ができているのが「柳田酒造」のブースだ。個性豊かな焼酎を味わうため、そして、蔵の代表である柳田正さんに話を聞くために、ファンが列をつくる。「実直」を絵に描いたような柳田さんは、飲み手が投げかけるどんな質問にも丁寧に答えてくれる。丁寧すぎて話が長くなってしまうこともしばしばだが、それを承知のうえで、皆、辛抱強く並んで待つのだ。

そんな柳田さんから、並ばずともたっぷりと話を聴ける「焼酎の教室」に、食いしん坊倶楽部の焼酎好き12名がdancyu編集部のあるプレジデント社の特設会場に集結した。濃紺に染め上げた蔵の半纏を羽織り、本日の主役が登場。
「こんにちは、柳田正です。今日は柳田酒造のいろいろな焼酎をお持ちしました。皆さんに飲んでいただきながら、それぞれの焼酎の特徴をご説明したいと思います。と、その前に、まずは蔵の紹介を」と、柳田酒造が位置する宮崎県都城市の歴史から語り始めた。

「都城市は宮崎県と鹿児島県の県境にあり、昔から交通の要衝として発展してきました。江戸時代までこの地域は薩摩藩に属していましたが、薩摩藩をおさめていた島津家は、都城が発祥なんです」
宮崎と鹿児島の文化が入り混じる都城市。それは地形や自然環境からもよくわかる。
「西に霧島、東に鰐塚山と、都城は山々に囲まれた盆地です。霧島と聞くと、鹿児島を思い出す方も多いと思いますが、霧島山高千穂の峰は宮崎と鹿児島の県境にあり、その一部は都城市に及びます」
ちなみに焼酎業界を牽引する霧島酒造は、都城市の焼酎メーカーだ。蔵の名称にも使われる霧島は、深い霧が立ち込める山々が、雲海の上にひょっこり浮かぶ島のように見えることから名がついたと、柳田さんは言う。
「湿度が高い地域であることから、麹菌の発育に向いていたため、発酵食品の製造業が昔から盛んでした。県で1,2位のシェアを誇る味噌醤油メーカーも都城にあるんです」

井戸
柳田酒造の敷地内にある井戸。清冽な地下水がたっぷり、こんこんと湧き出ている。
井戸

焼酎の醸造に適した自然条件はこれだけではない。
「都城のあたりは、有史以前は大きな湖だったという説が有力で、霧島の大噴火によって火砕流、つまり火山灰で埋め立てられたといわれています。この土地に霧島や都城盆地に降った雨が長い時間をかけて地下深くにたくわえられました。都城市は地下に大きな水がめがあるような街で、この水がめからくみ上げた井戸水が水道の蛇口をひねると出てくるのです。都城市民にコンビニやスーパーでミネラルウォーターを買う人はほとんどいません。なぜなら、水道水が天然水であることを知っているからなんですね。私の蔵にも水が滾々と湧き出る井戸があります。焼酎づくりにはよい水が欠かせない。都城は焼酎造りに適した土地といえます」

都城の説明だけでだいぶ長くなりました、と我に返る柳田さん。いよいよ蔵のなりたちへと話が進む。

都城で最も古い焼酎蔵。だが40年前には倒産寸前の危機に。

蔵外観

「都城市で最も古い蔵が私どもの柳田酒造です。創業は1902年(明治35年)と申していますが、江戸時代までは菜種油の製造の傍ら、焼酎もつくっていたと父が話しておりました。明治のはじめごろまで、焼酎は家庭でつくる酒でした。庭先に小さな蒸留器があって、各家庭で飲む分を仕込んでいたそうです。やがて国が酒税を徴収するために、日本酒と同じように免許制度を採用するようになります。そのとき、都城では柳田が最初に免許をいただいた、と聞きました」

スライド
受講者

だが、柳田さんが小学校に上がるころ、柳田酒造は倒産寸前の危機に陥っていたという。
「私が子どもの頃は、今のように焼酎が全国で飲まれることはなく、ほぼ地元で消費されていました。都城には14,5社の焼酎蔵があったのですが、狭い地域でシェアを奪い合うような状況が長く続いていました。そのなかで、霧島酒造さんが頭角をあらわしてくると、力のない蔵は次々に倒産。4社までに激減してしまいました。『次は柳田さんだね』などと噂されることもあったようですが、『都城で一番古い暖簾を先代から受け継いだ以上、ここで歴史を途絶えさせるわけにはいかない』と、のちに父は大きな決断を下します。大手と同じ土俵でたたかっても結果は見えている。それならばと、創業からつくり続けてきた芋焼酎『千本桜』の製造をきっぱりとやめ、麦焼酎蔵に転向したのです」

麦焼酎への転換で危機を脱する

柳田正さん

それが「駒」という銘柄だ。すっきりとして飲みやすい万人受けする麦焼酎で、当時はこういう酒質が大流行していた。「父がつくった『駒』があったからこそ、柳田酒造が生き残れた。私がこうして皆さんの前で話ができているのも、父の決断のお陰です」と笑顔を見せた。

柳田さんには6歳上の兄がいる。東京農業大学の醸造科に進学したため、当然兄が蔵を継ぐものだと考え、幼少の頃より憧れていたエンジニアの道に進んだ。ところが、父が重い病気を発症し、柳田さんが都城に戻ることとなる。
「当時、兄は企業の研究所で責任のある仕事に就き、家族もいたため、帰ることができませんでした。そこで、身軽な私が蔵を継ぐことになったんです。でも、私は農大を出ていませんから、微生物学や発酵学を学んでいない。焼酎をつくるうえで必要な知識が他の蔵元よりも圧倒的に乏しかったんですね。それでも、ひとつだけ私には大きな強みがありました。それをお伝えできる焼酎が、大麦焼酎『赤鹿毛』『青鹿毛』の2本です」

柳田さんの話に引き込まれていた食いしん坊倶楽部のメンバーの目の前に、グラスに注がれた2種類の麦焼酎が配られると、会場全体が甘香ばしい香りで満たされた。

グラスに入った焼酎
グラスに入った焼酎
グラスに入った焼酎

次の2時限目では、柳田酒造の蔵を知る2本『赤鹿毛』『青鹿毛』と柳田さんの「強み」について、たっぷりと語っていただきます。乞うご期待!

文:佐々木香織 撮影:竹之内祐幸 構成:林律子

佐々木 香織

佐々木 香織 (ライター)

福島出身の父と宮城出身の母から生まれ、東北の血が流れる初老の編集ライター。墨田区在住。食べることと飲むことが好き。お酒は何でも飲むが、とくに日本酒と焼酎ラヴァー。おもな仕事は新聞やウェブでの連載、雑誌や書籍の編集・取材・執筆。テーマは食べもの、お酒、着物など。

  • dancyu
  • 参加する
  • 焼酎の教室
  • 大注目!焼酎界のエジソン、柳田正さんが特別講師として登壇!宮崎・都城きっての古い歴史を持つ、柳田酒造とは?【焼酎の教室・第2回/1限目】