
この数年、東京の町焼肉が劇的に進化している。本企画担当のフードライター松浦達也さんの出身地である吉祥寺。今回、ご紹介するのは吉祥寺の地元住民に愛されて50年、270席の座席を有する超大箱の老舗焼肉店「李朝園」です。
町焼肉、町中華にはノスタルジーがつきものだ。そしてどんなに観光地化が進んでも、吉祥寺はやっぱりノスタルジーの町だ。50年前から軒を掲げ続ける個人店がこれほど密集する町はいまの東京では珍しい。さすがお寺さんが地主の町である。
創業1974年の『李朝園』。「吉祥寺の焼肉」と聞けば焼肉好きならまずこの店を思い浮かべるし、吉祥寺生まれの僕は物心ついたときには看板を目にしていた。メンチカツで知られる精肉店「さとう」の行列の先あたり、コスモビル4階の「李朝園」だ。
現在、店を取り仕切るのは林淑妙(リン・ショクミョウ)さん。2012年に「先代オーナーが主人の友人だったご縁もあって」バトンを引き継いだ。
実は林さんが店を継いだ当時、李朝園の経営は苦しかった。「繁盛していたのに、経営がおおらかすぎて実は赤字だったの」。守るべきものはたくさんあった。大衆的な値段に従業員、和牛を土台とした味わい、そして270席という大箱ならではのにぎにぎしい雰囲気……。
細かなところにも守るべきものはたくさんあった。例えば席に着くと即提供される無料の麦茶。
見て分かる通り、煮出し方が濃い。有機大麦を使った麦茶で、毎日数十リットルを煮出して原液を作り、ポットで氷を足して提供している。
無料提供なのに原価もかかるし手間もかかる。飲料の注文だって手控えられるかもしれない。それでも「うちはファミリーにも来ていただく店ですから」と麦茶の提供をやめようとはしない。
肉だってそうだ。近年焼肉店でも値上げを余儀なくされるケースがあちこちで見られる。原価も人件費も上がっているのだから仕方がない。しかし李朝園はがんばってくれている。
たとえばこのカルビが1,397円。
平日限定の和牛切り落としは979円。
17時以降限定のハラミは1,320円。
いずれも吉祥寺という繁華街のど真ん中にしてはちょっと値段がおかしい。ごく一部に2,000円以上の「特選和牛」メニューもあるが、ほとんどの客は前出のような定番を注文する。そんな気安い雰囲気まで丸ごとおいしい。
そのお値打ちな肉を七輪で炙る。一見火力は控えめだが、珪藻土の七輪は網の中央に輻射熱が集中するから熱量は十分。さらに和牛など脂の多い肉を焼くとき、下に落ちた脂に少しだけ引火させて小さな炎を立て、肉のフチを軽く焦がすとバリッとした旨さも付与できる。肉焼きはムラが命だ。
だが焼肉店では大きく炎を立ててはならない。今回のインタビュー中でも、肉の脂で炎を立てている卓を見つけると、林さん自ら飛んでいっては氷で消火していた。「火柱を立てて喜ぶお客さんもいるけど、あれで火事になるのをみんな知らないのよね」とため息をついた。アイドルタイムには手の空いた従業員がダクトを清掃する光景もしばしば見られる。
守るだけではない。李朝園はコロナ禍以降、ランチからの通し営業に踏み切った。以前は夕方以降の行列に並ぶしかなかったが、平日ランチタイムにサクッと訪れたり、変な時間に空腹を覚えたらアイドルタイムに一人で肉をつついたりもできる。
「これ」と思えば新メニューも投入する。数年前、大量に出る端材を活用した「焼肉屋のハンバーグ」を商品化した。端材とはいえもともと肉の質はいい。挽肉に手切りしたスジ肉なども加え、豊かな食感と風味を生み出した。口にすると弾力あふれる肉肉しさの奥から確かに和牛が香る。箸を伸ばす手が止まらず、うっかりここでもライスを頼みたくなったが、「それはやり過ぎ」という心の声が聞こえて、すんでのところで踏みとどまった。
いまの林さんのお気に入りはセンマイ(刺し)。営業を終えた後、まかないと勉強を兼ねて通っていた近隣の焼肉店がのれんをたたむことになり、メニューをレシピごと引き継いだ。他にも平日1日15食限定、20時までの注文がおすすめの海鮮チヂミや、丸鶏や昆布で毎日スープを引く韓国宮廷料理シェフ直伝のボリュームたっぷり冷麺など、メニューのすそ野は深く、広い。
もちろん土日の行列もテンションが上がるし、平日午後の閑散とした時間に一人で肉をつつくのも味わい深い。平日夜のにぎにぎしい雰囲気のなか、仲間たちと大瓶のビールを注ぎ合うのも楽しいひとときだ。
李朝園には愛がある。無料の麦茶はもちろんお値打ちなお肉もそうだし、端材を使ったハンバーグもそうだ。スタッフは何も言わずとも頻繁に網を交換してくれるし、炎を消しに足を運んでくれる。
帰り際、「リンさーん!久しぶりー!元気だったー?」と満面の笑みで来店する20代と思しき女性の常連客とすれ違った。愛のある李朝園は、長く誰にも愛されるみんなの心の故郷なのだ。
文・写真:松浦達也