
いつもお世話になっております! 現在、並盛430円。お味噌汁までつけてくださって。この価格で腹一杯食べさせてもらえるだけでもありがたいが、なんと松屋の牛めしはタレを何度も何度も変えているのだとか――。客側として不満などないが、なぜそんなに変えなければならないのか。松屋フーズの本社を訪ねた。
筆者は業界通でなければ、食通でもない。人物像を描く仕事が多い。だから、できるだけ消費者サイドの感覚で、そこに登場する主役や脇役の人々にフォーカスしながら、ファストフードの面白さをレポートしていきたいと思う。
昨冬、編集者から「新しい試みとして、dancyuWEBでファストフードの取材をしたい。Xで話題になっている松屋のオリジナルカレーが気になる」と言われ、松屋フーズの広報に連絡をした。2019年以来5年ぶりの復活なのだとか。ほうほう。やりとりすると、広報担当者が話のわかる人であった。
「面白いという意味では、カレーより牛めしかもしれません。丼タレが33代目なんです」と言う。「こんなに改良を重ねていることは、それほど知られていない」のだとか。牛めしのタレのことを「丼タレ」と呼ぶのか。牛丼チェーンの味はおおむね、しょうゆ、白ワイン、出汁の3大要素で構成されている。だからどこも同じかというと、そう単純ではないのはdancyu読者ならご存じだろう。いざ、松屋フーズ本社へ。
広報担当者が引き合わせてくれたのが、商品開発部の磯崎裕史さんだった。取材の数日前、人気テレビ番組『ジョブチューン』に出演されたばかりで、チェックしていた筆者は「あ、あの人だ。なんか面白いコメントされていましたよね!」と声をあげてしまった。磯崎さんは、丼タレ8代目あたりから開発に関わっているという。いわば、丼タレのマスターブレンダーか。磯崎さんに、直球の質問をさせてもらった。
筆者「なぜ、そんなに味を変えるんですか」
磯崎さん「社長や会長が変えると言ったら変えるんです」
なるほど、そうすると磯崎さんはマスターブレンダーではないのかもしれない。真顔で答える磯崎さんだが、そこには磯崎さんらしい静かなるジョークと謙遜が含まれていた。無心に牛めしをかきこむ食いしん坊は想像しない「チェーン店ならではの努力」があることを、この日、知る。
8代目からの全歴史を聞こうすると、「三日三晩かかる」と言われたので、磯崎さんの記憶に新しい29代目からの変遷をざっと紹介してもらった。読み終わるころ、きっと「牛めしが食べたい」と思うはずだ。今からさかのぼること十数年――。
2011年、28代目の諸問題を解決するために29代目が生まれた。しょうゆが濃すぎて時間経過とともに肉に色が付きすぎてしまう現象が起きたのだという。現・会長の直感にくわえ、現場スタッフやお客様からの声もあり、タレの刷新を決めたそうだ。
松屋は1000以上の店舗を構えている。直営店もあればFC店もある。肉を入れて間もないタイミングがあれば、回転が落ちる時間帯には少々煮詰まったような状態になることもある。でも、いつもの見た目、味にしなければならない。一人分をちょこっと作ってさっと出すのとは違うのだ。諸々の変化を考慮して、調味料を調合することが求められる。
匙加減ひとつで、日本全国の牛めしが甘くもなれば、辛くもなる。調整してから2~3週間後には全国展開されるというのだから大チェーンはやることがスピーディーかつダイナミックだ。
30代目は、2014年生まれ。牛めしファンなら記憶にあるであろう「プレミアム牛めし」の丼タレだ。冷凍ではなくチルドの牛肉を使った贅沢バージョンであり、無添加の実現と、素材の新鮮さをいかすため、丼タレをシンプルな構成に変えたそうだ。プレミアム化にともない、290円から380円に値上げをし「300円の壁を越えた」と大きな話題になった。当時、ライバルの値付けは、よし野家(よしの漢字は土の下に口)300円、すき家270円であった。「黒七味(正式名称は、黒胡麻焙煎七味)はよかったなぁ」と編集者が漏らす。
21年の31代目は、なんと実験段階で終了し、全国展開されることはなかったという。牛肉がフローズンに戻ったことで、肉を硬く感じられることへの対策として、タレ自体に肉を柔らかくする作用を持たせたのだが。
22年、32代目はこれまでの丼タレとはまったく違う形でのデビューを果たす。肉を陰で支えてきた丼タレが主役となって完全リニューアルを遂げたのだ。リリースに、こう書かれてある。
きっかけは、社長のひらめきだった。本社地階にある直営の割烹で出された「牛肉のしぐれ煮」を賞味したとき、その出汁感にピンと来た社長は、磯崎さんに「出汁感がいいね」とショートメールを送った。「参考に」と割烹の板前が持ってきたしぐれ煮を食べた磯崎さんは「さすがに出汁がききすぎている。このニュアンスを丼タレに生かすのは難しい。要は落としどころだ」と察した。
カツオや昆布のエキスを足したり、しょうゆを3種類使って香りを立たせたり、試作と試食を40~50回重ね、ようやく32代目が完成する。しょうゆのひとつは、採算度外視の高級品だ。何度も試食に参加した広報担当者は、「最後のほうは、何が変わったのか私にはわかりませんでした」と振り返る。それはそうで、オペレーションや時間経過による変化を考慮して、コストも勘案しながら調味料を究極的に微調整するプロの領域なのだから。
そして、23年から登板することになった現役の33代目。32代目は香り高いしょうゆを使ったがゆえに、時間経過とともに香りが飛びやすく、出汁感が強いがゆえにカツオの風味が飛ぶことがわかり、ここで対策を打った。
2025年2月現在の丼タレは、正確には「33A」なのだという。それぞれの代でマイナーチェンジされるたび品番が更新されていく。改良は「33G」まで進み、「33C」は全国展開されたのだが「ちょっとしょっぱいから、もうすこし甘いほうがいい」という意図で「33A」に戻ったらしい。
磯崎さんが言う。「加熱温度だけじゃなく、鍋に入れる肉の量によっても、丼タレは影響を受けます。よりおいしく、より安定させるために、壊れにくいタレを作らなければならないんです。今の33代目は『耐久性』があるんです」
社長も、ひらめきや思いつきだけで物言いをつけているわけではなく、週2回15~16店舗の味をチェックし、ほぼ毎朝、本社ビルにある松屋か松のや(系列のとんかつ店)で試食するという。スタッフからの意見、お客様からの声も十分に反映させ、最終決断する。
ショートメールで社長の「所感」を受け取る磯崎さんももちろん毎日試食を重ねている。さらに、社長と磯崎さんは毎週、競合である「Y」と「S」の牛丼を一緒に食べ、競合調査、市場調査にも余念がない。磯崎さん曰く、競合もまた店ごとに味が違うらしい。「客の回転が速く、肉を煮込んでいる回数が多い忙しい店のほうが、うまみがタレに出ていて、おいしいでしょうね」とのこと。
実は、34代目、35代目、36代目も存在している。いずれも短命か、世に出ていないか、テスト中かで、安定性の高い「33A」の座を脅かしてはいない。完成度の高い「33A」を磯崎さんはこう評価する、「深い感じの味なんですよ」。しいたけのうまみ、鶏のうまみを加え、砂糖をやや多めにしたという。ところが今、しょうがやにんにくが増量された「36B」の実験を拡大しているらしい。名作「33A」に取って代わるのだろうか――。
日々、丼タレの改良を地道に続ける磯崎さんのうれしい瞬間は何なのか。
「社長のOKが出たとき。あとは『よくなったね』と言ってもらえたときです」
逆に、きついのはどんなときか。
「NGが連発したとき」
最後に、オリジナルカレーの取材をあきらめていない編集者が磯崎さんに聞いた。
編集者「カレーは何代目なんですか」
磯崎さん「31代目です。正確には『31AE』です」
文:荒川 龍 写真:dancyu編集部