「蕎麦は生産者との二人三脚」という店主の吉川邦雄さんにとって、産地との行き来はもはや生活の一部。時に農作業を手伝いながら絆を深めている。そんな吉川さんが密かに抱く夢とは?
吉川さんが修業時代から続けていることの一つに産地巡りがある。蕎麦の師匠である田村一人さん(現・「蕎楽房 一邑」店主)の影響だという。
「今の小松庵では玄蕎麦を直接、農家さんから仕入れていますが、その体制をつくったのが当時の専務と田村さん。産地に出向く時は僕も同行させてもらいました。最初に足を運んだのが、北海道の新得。ここで採れる“ボタンそば”は大粒で扱いやすく、大規模な農場が多いことから量産もできる。店舗の多い小松庵が仕入れるには最適な産地だったんです。農協の人も農家さんも一所懸命で良質の玄蕎麦が採れていました。特に平成7(1995)年産は真緑で釜の湯が緑に染まるほど。びっくりしましたね」
蕎麦畑を初めて目にした吉川さんは、そこに蕎麦という食べ物の原点を感じ、やがて個人的にも休日を使って産地巡りをするようになる。同じ蕎麦の畑でも環境はさまざま。汗を流す生産者の姿を見る度に、「いつか自分が店を開いたときも直接仕入れたい」という思いを募らせた。玄蕎麦からの自家製粉は吉川さんにとって必然だったのだ。
開店当初の取引先は2産地のみ。それが12年間で徐々に増え、現在は北海道から沖縄・宮古島まで25産地前後に及んでいる。
その中で主力産地の1つに挙がるのが、1回目で手碾(てびき)せいろと蕎麦がきを紹介した千葉県成田産だ。生産者の上野光弘さんはかつて茨城県古河市の農業法人に勤務。妻の雅恵さんの実家が米農家だったことから、その伝手で畑を借り、夫婦でコツコツと蕎麦の栽培に励んでいる。吉川さんが上野さんと出会ったのは前職の農業法人に勤務していた時。退職したことさえ知らされずにいたが、人づてに夫婦で蕎麦を栽培していると聞いて成田に飛んでいったそうだ。
埼玉県三芳町の生産者「みよしそばの里」も懇意にする1軒だ。蕎麦づくりを始めたのは1995年。現在は計27haの畑で、二代目社長の船津正行さんをはじめスタッフ9人が蕎麦栽培に取り組んでいる。
「三芳の蕎麦に出会ったのは開店して3年目ぐらい。浦和の『庵 浮雨(あんぷう)』さんに行ったら、きれいな色のお蕎麦が出てきたんです。店主の熊谷晴匡さんは知り合いなので、『どこの蕎麦?』と訊いたところ三芳だという。すぐに場所を探して向かいました。対応してくれたのは今の社長の船津さん。取引したいと言ったら『うちは抜き実しか売らない』とけんもほろろでしたね。その時は諦め、『この辺りでカブトムシが捕れるところはありますか』って話題を変えて。息子が欲しがっていたからなんですが、妙なヤツだと思ったんでしょうね。その後、何度か訪ねて想いを伝えるうちに、取引させてもらえるようになりました」
吉川さんによれば、初めて訪ねる農家で門前払いされるのはよくあること。それでもめげずに幾度も幾度も足を運んでようやく分けてもらえるケースが多いとか。産地別の蕎麦は吉川さんの熱意の賜物というわけだ。
取引が始まってからも足を運ぶ回数は衰えない。
「成田や三芳など東京近郊の産地は、時間が空くとすぐに車を飛ばしちゃいますね。体調が悪い日に強行しようとしたら、『パパ、今日だけは寝ていて』と子供たちに引き留められたぐらい(笑)。遠方の農家さんのところにも機会をつくって顔を見せるようにしています。この夏も山形・越沢と長崎・五島に行ってきました」
コロナ禍の折には行けない代わりに頻繁に電話やメールで連絡を取り、圃場(ほじょう)の状態や栽培状況などを聞いていたという。そんな吉川さんのもとに、良質の玄蕎麦が集まってくるのは当然だろう。
もっとも、産地に足を運ぶ理由は単に良い玄蕎麦を仕入れたいからではない。
「お蕎麦の本当のおいしさは、農家さんの想いがあって初めて生まれると思っています。蕎麦という作物に込められた想いをつなぎ、食べる方々に伝えるのが僕の役割。それには、直接、会って、話を聞くことが欠かせません。僕は畑の周りに広がる景色、風や土のにおいといったそれぞれの風土を打つ蕎麦に封じ込めたい。現地で体感しなければわからないですよね」
産地に想いを寄せる吉川さんは、生産者と蕎麦職人の交流会を度々開いている。それを機に、生産者同士がつながり、気軽に情報交換をするようになった。蕎麦屋仲間が畑に集う手刈りの会も恒例だ。蕎麦屋同士の輪も広がり、連れ立って産地巡りをすることも多いそうだ。
こうして生産者とふれあうなかで一つの夢が生まれた。それは地方に自分の畑を持ち、蕎麦の栽培をしながら店を営むこと。
「東京から地方に移転したお蕎麦屋さんの話を聞くと羨ましく思いますね。自分が行くなら、親が生まれ育った福島とか、江戸蕎麦の源流とされている長野だったら南相木とか。ただ、作物の栽培は決して簡単なことじゃない。毎年、毎年、繰り返してようやく軌道に乗せられるものですし、台風などの自然災害に遭うことだって考えられる。それだけの覚悟が自分にはあるのだろうかと。それに、うちの女将は生粋の江戸っ子。やっぱり東京がいいんだろうなと思ったり。今の僕にできるのは、農家さんの話をしっかり聞いて、農家さんの活力になるような存在でいること。そして、そういうお蕎麦屋さんの仲間を1軒でも多く増やしていくことかなと思っています」
「二八だ十割だ」と喧しかった時代から、産地の個性を味わう時代へ。蕎麦は今、その過渡期なのかもしれない。
文:上島寿子 写真:岡本寿