映画やドラマに登場する「あのメニュー」を深掘りする連載。第42回は「かもめ食堂」の荻上直子監督が描く、孤独な青年がアパートの住人との交流を通して社会との接点を見つけていく物語です。
ある日、山田(松山ケンイチ)は川べりのアパート「ハイツムコリッタ」に引っ越してきた。そこは現代の貧乏長屋といった風情で、一人娘を持つ大家(満島ひかり)、隣の部屋は独身の島田(ムロツヨシ)、向かいの棟には墓石の販売で生計を立てる父親(吉岡秀隆)と幼い息子らが住んでいる。刑期を終え出所したばかりの山田は、引受人の社長が経営する塩辛工場で働きながら、誰とも関わらないようにひっそり暮らし始めた。
初めて給料をもらった山田が、真っ先に買い求めたのは米だ。殺風景な勝手口で丁寧に米を研ぎ、大きな背中を丸め慎重に水を計量する。しゃもじを持ち子供のように炊飯器の前で待ち構えていた彼は、炊き上がりの電子音が鳴るやいなや蓋を開けた。
湯気に包まれながら茶碗に炊きたての白米をよそい、ちゃぶ台に正座する。神妙に手を合わせて食べ始め、一口目から感極まってしまう。ふたくち目でいつも不愛想な表情がやわらいで恍惚となる。炊きたてのごはんと風呂上がりの牛乳。山田が欲しているものは目下この二つだけだ。
このささやかな暮らしに、さざ波を立てるのが隣人の島田である。突然現れて風呂を貸してくれと言ったり、勝手に冷蔵庫を開けて缶ビールを飲んだりする。ある日は唐突に、部屋の外に茶碗と汁椀を持って立っていた。ごはんが炊き上がった匂いを嗅ぎつけたのだ。山田と負けず劣らず貧乏暮らしの島田だが、違うのはずいぶん馴れ馴れしいこと。戸惑う山田をものともせず、部屋に上がり込み、山盛りのごはんを茶碗に入れる。
黙ってごはんを食べている山田の向かいに、嬉しそうに座る島田。おかずはみそ汁と、工場でもらった塩辛と海苔の佃煮、そしてアパートの前庭で島田が育てた野菜の自家製の漬物。白いご飯にぴったりのラインナップだ。
「うまっ。山ちゃん、ごはんを炊く才能があるよね」
そんな風に言われた山田は、図々しさに呆れながらも隣人に少しづつ心を開いていくことになる。
そんな彼らが、贅沢にもすき焼きを食べるシーンがひときわ印象に残る。ある日、向いの父子が墓石の契約を取り付けたお祝いに、こっそりすき焼きを食べようとしていた。肉を鍋に入れた時、島田の嗅覚がその匂いを嗅ぎつけた。山田も卵と器を抱え部屋に走り込む。いつもは静かな大家まで娘を連れて乗り込んで、すき焼きを囲む真夏の宴会が始まった。
狭いちゃぶ台に、皆がひざを突き合わせて座る。卓上コンロのすき焼き鍋がぐつぐつ煮え、霜降りのいかにも上等なすき焼き肉と、焼豆腐、長ネギ、しらたき、飾り切りのしいたけとニンジンがぎっしり詰まっている。大人も子供も前のめりでひたすら口を動かし、うっとり幸せを噛みしめる。他愛のない話に花が咲き、部屋中に親密な空気が満ちていった。
そして山田の部屋でも、島田と食卓を囲むことが日常になっていく。缶ビールを開ける音がする。菜園でとれたばかりのきゅうりをかじる、ぼりぼりという音がする。拾ってきた扇風機がぐるぐる回って簡素な部屋に風を送り、ひぐらしの啼く声が響き渡る。
ごはんを食べながら、島田はこんな風に言っていた。
「ごはんはさ、ひとりで食べるより、誰かと食べた方がおいしいのよ」
炊きたての白米を食べたいがための、島田なりの方便だったのかもしれない。しかし、心を閉ざしていた孤独な山田が少しづつ過去を受け入れ、他者と関わることに意味を見出す姿を見ていると、そこにまぎれもない真実があると思えてくるのだ。
文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ