珠玉の蕎麦や蕎麦がきに加え、酒を呼ぶつまみや心地いい空間も「一東菴」の魅力。名店が生まれるまでの歩み、そして最愛の家族とのサイドストーリーを紹介しよう。
蕎麦や蕎麦がきで万華鏡のように多彩な味わいを楽しめる「一東菴」だが、酒肴もまた魅力的だ。品書きにはそばみそ、浸し豆、湯葉さし、馬刺しなど酒を呼ぶ品々が並び、もちろん、蕎麦屋の定番である焼き玉子(玉子焼き)や天ぷらも控えている。さらに壁には季節の一品も張り出され、どれを頼むか迷走すること必至だ。
そんな時の救世主がお薦めの品を盛り合わせた“三種酒肴”だ。実はこの品、3種とは名ばかりでどう数えても6種はのっている……?
「いえいえ、スペースは3つに分かれているから僕的には3種ですよ(笑)。お客さんに楽しんでもらいたくて、ついつい盛り過ぎちゃうんです」
たとえ盛り過ぎても値段は据え置き。太っ腹過ぎます(嬉しいけど)。
この日の顔ぶれは、しっとりとして歯切れのよい鴨ロース、三つ葉とじゃこの玉子焼き、浸し豆、蕎麦みそ、豆富と湯葉など。玉子焼きには平飼有精卵を使うなど、いずれも出所の確かな食材を選ぶのが基本。野菜は蕎麦農家がつくるものを積極的に使うのも吉川さんの流儀だ。たとえば、酒肴三種に入るお浸しのモロヘイヤは埼玉・三芳「みよしそばの里」産。人気の海苔入りのポテトサラダには、キタミツキなどの玄蕎麦を仕入れている北海道・蘭越「ファームトピア」のメークインを使っている。しっとりきめ細かく甘味も濃いので、シンプルな味付けでも十分だとか。
「蕎麦農家さんの野菜はどのようにつくられているかが手に取るようにわかるから安心なんです。もちろん、その野菜を使うことが少しでも応援になればという気持ちもあります」
こうした蕎麦前とともに、“蕎麦後”には手づくりの甘味も用意されている。バリエーションは幅広く、自家製のあんこを添えた蕎麦がきぜんざいから、季節の果物を使ったアイスクリーム、チーズケーキ、時にはパフェまで登場。引き出しの多さに脱帽だ。
酒肴やデザートも逸品揃いとなれば、野暮とわかっていてもつい長尻になる。しかも、コンクリートと木を融合させた客席は居心地抜群。モダンでありながら趣きがあり、腰をおろすと肩の力がふーっと抜けていく。
設計したのは和モダンのデザインで人気を集める建築家の川口通正さん。何度も何度も話合いながらプランを練り、完成までに6年を要したという渾身の作だ。
客席で接客にあたるのは、笑顔がチャーミングな妻の千賀子さんだ。女将として、いや、妻や母としても気配りがあって働き者の千賀子さんは、吉川さんにとってなくてはならないパートナー。2人の仲の良さは蕎麦屋仲間の間でも有名だ。
聞けば、今、店があるのは千賀子さんが生まれ育った場所。
「独立に向けて店舗を探していた時、千賀子のお父さんが『ここでやらないか』と声をかけてくれたんです。店の上には僕ら家族と一緒にお父さんやお母さんも住んでいて、洗い物など店の手伝いをしてくれるんです。子供たちが小さい頃はよく面倒を見てもらっていました。本当にありがたいですね」
もっとも、10代の頃の吉川さんは蕎麦屋になると夢にも思ってなかったという。
「小学3年生の時の夢は洋食のコックさん。家の近所に『ラッキー』という洋食屋さんがあって、そこのハンバーグが大好物だったんです。食事の支度をする母の手伝いもよくしていましたね。父は紳士服の仕立て屋なんですが、その仕事にはまるで興味がなかったんです」
高校を出たら大学に進みたいという気持ちもあったが、兄が大学進学を目指して浪人中だったことから家計の負担を考えて断念。せめて1年間だけ専門学校に……と服部栄養専門学校に入学した。卒業して就職したのは池袋にあるホテルの洋食部門。ラウンジやバーの料理を担当するようになった。
「その時、上司だったシェフはとにかく無口で仕事に厳しい人。怒られないかと四六時中、ビクビクしていました。料理の基本を叩き込んでくれたのはそのシェフですね。教えられたことの一つが『どんな時でも大切な音を聴き取る耳を持ちなさい』ということ。調理をしながらでも周りで何が起こっているかを聴き取り、即座に判断できる力は料理人には欠かせません。今、1人で調理場を回せるのはホテル時代の経験があるからなんです」
そのホテルのラウンジでサービスを担当していたのが千賀子さんだ。当時、吉川さんは19歳、千賀子さんは18歳。
「お互い10代ですからね、もうまっしぐらです(笑)。仕事中、周りにわからないようアイコンタクトを取るんですが、勘のいい先輩がいて後ろから頭をバッコーン!なんてこともありました」
仕事は充実していたものの、ある種の違和感も持っていた。ホテルといえども一企業。年功序列がはびこり、左遷も当たり前の世界だ。「自分の居場所はここじゃない」。そう感じた吉川さんは、「石の上にも3年」という父の教えを守った上で転職を決断する。23歳の時だ。
とはいえ、迷ったのは就職先である。料理の仕事に就いてみて、改めて掘り下げたいと思ったのは日本の豊かな食材。将来、自分で店を開くなら、それを扱えるジャンルがいい。その時、たまたま入った町の蕎麦屋で道が開いた。日本ならではの蕎麦という文化に俄然、興味が湧いたのだ。
手始めに個人で営む蕎麦屋にもあたったものの、人手が足りていたり、家族経営だからと断られたり。転職情報誌を開いても、バブル崩壊後の就職難から蕎麦屋の求人は2件のみ。その1件が大正11(1922)年創業の老舗「小松庵総本家(以下、小松庵)」だった。
「ちょうどその頃、恵比寿ガーデンプレイス店(現在は閉店)のオープンに向け、人を募集していたんです。面接で当時の専務(現・社長)と話したところ、駅ビルのテナント展開などさまざまな構想があり、チャレンジしてみたいと入社を決めました」
駒込本店での研修を終え、いよいよ恵比寿ガーデンプレイス店に配属という時、吉川さんはあろうことかそれを拒否。蕎麦の基礎をもっと学びたいと本店勤務を願い出た。
「基礎がないまま新店舗に行っても、忙しさに流されるだけ。それに当時、小松庵では機械打ちから手打ちに転換をはかっていて、指導役として現在、埼玉県東浦和で『蕎楽房 一邑』を営む田村一人さんを社員に迎えていました。経験豊富な田村さんのもとで手打ちなど蕎麦の技術を学びたいという気持ちが強くなったんです」
新入りの無謀な希望を修業先は鷹揚に受け入れ、本店で2年間、腕を磨くことができた。田村さんは恩人であり、蕎麦の師匠だ。
その後は新宿高島屋店などほぼ全店舗を回り、本店の店長に抜擢されるまでになった。
「でも、正直、頭(店長)はやりたくなかったですね。僕はいずれ出ていく人間だし、二番手のほうが自由に立ち回れますから。たとえば、機械打ちの場合、1回5kgで打つのが決まりでしたが、僕は断りなく3kgや2kgに減らしていた。少なく打つほうが蕎麦へのダメージが抑えられ、おいしくなると思ったので。蕎麦打ちの機械に板を置いて即席の打ち場をつくり、1kg分だけ手打ちで出していたこともありました。これが結構、評判で、手打ち蕎麦を目当てに来店されるお客さんもいたぐらい。『勝手なことをやるな』と上からは怒られましたが、しれっと続けていました(笑)」
穏やかそうに見える吉川さんの反骨精神はちょっと意外な気もするが、それもひとえにおいしい蕎麦を出したいという熱意ゆえ。
当時の専務と仕事に関して大喧嘩し、退職届を出したこともあった。勢い、有名フレンチレストランの面接を受けに行き合格。そのまま転職か……というところで、先輩に諭されて出戻ったというエピソードもある。その時も専務に頭は下げなかったというから、負けん気の強さは人一倍。その負けん気が蕎麦を探求する原動力でもあるのだろう。
もちろん、修業先に戻ったのには蕎麦屋を開きたいという強い気持ちがあった。
通算16年の修業を終え、念願の店をオープンさせたのは2011年12月13日。吉川さんが39歳の年だ。
玄蕎麦から自家製粉した蕎麦の旨さは瞬く間に広まり、蕎麦好きが詰めかけるようになった。特に評判を呼んだのは二八蕎麦だ。当時、蕎麦の世界では十割蕎麦が注目され、「蕎麦は二八より十割」との声が高まっていた。そのなかで、吉川さんが打つ香り高い二八蕎麦は十割信仰を吹き飛ばす強烈なインパクトがあった。
「二八蕎麦は小松庵の頃から僕の“得意科目”。『十割蕎麦のよう』と言われたのは、修業時代からつながりで、農家さんからよい圃場の玄蕎麦をもらっていたこともあるのでしょう」
店は連日満席になるほど大盛況。そのまま順調に1周年を迎えられると思っていた矢先、この店最大の危機が訪れる。4人兄弟の末っ子がマイコプラズマ脳炎になったのだ。
「ICUに入った息子は意識が戻らず、お医者さんからは目が覚めてもそれまでの記憶がなくなり、車椅子の生活になる可能性もあると言われました。もう頭は真っ白ですね。千賀子と2人で毎日泣いていました。もし車椅子を使うことになったら1階で生活するしかない。店をたたむことも考えていました」
到底、店を開けられる精神状態にはなく、休業の告知を自分で書いて張り出した。それを見て、「ただごとではない」と連絡をしてきた1人が、看板の字を揮毫した書家の永田紗戀さんだ。文字に心の動揺が如実に表れていたのである。
祈るしかない日々を過ごして10日目のこと、病院に行くと息子の周りを医師や看護師が囲んでいた。最悪の事態を覚悟しながら近づくと、人垣の真ん中に目を覚ました息子がいた。意識が戻ったのである。
「僕らの顔を見ると大泣きでした。知らない大人に囲まれて、自分がどこにいるのかさえわからなかったのでしょう。本当に嬉しかったし、ほっとしました。店も年末ギリギリに再開し、1周年を迎えることができたんです。休業を知らせる張り紙は取ってあり、時々見返しています。今、こうやって営業できることに感謝しかありません」
大病を乗り越えた末っ子は高校生の17歳に。すくすくと育ち、お父さんの背丈をすっかり追い越した。そして店もまた同じ歳月を重ね、力強く東十条の地に根を生やしている。
文:上島寿子 写真:岡本寿