産地に応じて挽き方を自在に変えた蕎麦は、打ち方や茹で方にも独自のアイデアが投入されている。同時に、心を配るのは所作と始末の美しさ。店主、吉川邦雄さんの仕事の流儀を追った。
吉川さんの起床時間は早朝5時。7時には打ち場に立ち、前日に挽いておいた蕎麦粉で蕎麦打ちの作業に入る。1日に打つ蕎麦の種類は最低でも3種類。多い時には5種類、時にはそれ以上になることも。蕎麦粉に水を含ませる水回しから、のして切るまでトータル30分の工程を3回以上繰り返すわけだ。
「1回に打つ量は1kgまでと決めています。修業先では2kgで打っていましたが、量が少ないほうが手の触れる回数を減らせ、短時間で打てる。その分、蕎麦への負荷が少なくなるので風味を損ねずに済むんです」
ちなみに、修業時代の蕎麦打ちは平日10回、土日で20回が当たり前。数をこなしたからこそ、手早さや正確さなど蕎麦打ちの“基礎体力”が身についたそうだ。
まず行うのは、蕎麦粉を混ぜながら水を行きわたらせる “水回し”だ。これに使うのは直径80cmほどの塗りの木鉢。篩(ふるい)にかけてから蕎麦粉を入れるが、吉川さんの場合、蕎麦粉の粗さがばらばらなので目のサイズの異なる7種類の篩が用意されている。
今回、打つのは千葉県成田産の手挽き。粗挽きと微粉が混ざっているため、目の大きな18メッシュで篩って蕎麦粉のキメを整えたら、いよいよ水を投入……と思ったら、吉川さんは蕎麦粉をドーナッツ状に整え始めた。そして、水を中心にできたスペースへ。もんじゃ焼きのような作法だが、なぜこれを?
「水を均等に入れるためです。蕎麦粉に直接水を注ぐと、どうしてもムラができやすい。中心に水を落として一気に混ぜれば満遍なく水を回すことができるんですね。特に手挽きや粗挽きの蕎麦粉は水を吸いやすいのでこの方法を取り入れています」
水の注ぎ方は一気に入れたほうがいいという職人もいるが、吉川さんは3回に分け、その都度、混ぜながら加えていく。これもムラなく水を含ませるためだとか。
見惚れてしまったのは、水を回していくその動きだ。大きくパーに開いた手の全面を使い、蕎麦粉を踊らせながらスピーディーに混ぜていく。続く“練り”はパワフルかつスマート。生地をぎゅっ、ぎゅっと力強く練るうちに、蕎麦玉がコシと滑らかさを宿していくのがわかる。最後の菊練りで円錐形にまとめるまで無駄な動きは少しもなし。しかも木鉢の中が常にきれいに整えられている。数をこなした成果だけでなく、蕎麦を育てた人たちへの敬意でもあるのだろう。
まとめた生地を打ち台に移したら、次はのしの工程へ。まずは手の付け根で円盤状に手のしをするが、その手捌きに目が引き寄せられた。リズミカルに手を動かすと、生地もくるくると回転。まるで吸盤がついているかのよう。
続いては、のし棒を使った“四つ出し”をした後、本のしに入るのは教科書通りだが、驚いたのは手の動き。のし棒に置いた両手の付け根を左右に小刻みに動かして、のし棒を前に転がしている。
「通常は両手を大きく回してのし棒を転がしますよね。でも、この粉は粗挽きが多いので、本のしの段階でそれをしてしまうと生地が引っ張られて切れてしまう。このやり方なら下に力がかかるので切れにくいんです」
水の加え方といい、のし棒の転がし方といい、粗挽きの粉がいかに繊細なのかが伝わってくる。実際、反物のように薄くのされた生地は、ちょっと気を抜いたらピリッと破れそうで触るのも憚れるほど。
「僕もたまにやるんです。蕎麦を打つときは製粉室で脱皮などの機械を動かしているので、その音に気を取られて破いちゃうとか。だから、邪念は払って集中するようにしています」
ちなみに、吉川さんが蕎麦を打つ時に考えるのは産地のこと。
「畑の景色や生産者の顔を目に浮かべながら、想いを込めて打っています」。
本のしを終えた生地はわずか1mmほどに薄さ。たたむ時もひと際、慎重になる。麺棒に巻き取って、そっと2つに折りたたみ、さらに2回たたんで6つ折りにしたら、いよいよ最終工程、“切り”に突入だ。
打ち台にセットしたのは桐の寄木のまな板。その上になみなみと打ち粉を乗せたら、こま板(包丁切りするときに使う定規の役割をする道具)ですーっと平らにならした。その上にたたんだ生地を慎重にのせたら、再び、たっぷりと打ち粉をのせてから、またもや、こま板で均等に広げていく。これほど丁寧に打ち粉を扱う光景は、今まで見たことがない。
「打ち粉の凹凸があると切る時にブレてしまうし、仕事はきれいにしたいので」
職人としての矜持とでもいうのだろうか、それはさまざまな場面で感じられた。
たとえば、生地の端に近づくとこま板が斜めになるが、高さが変わらないようタオルをかませているのはその一つ。ほかにも、包丁についた蕎麦の生地は切っている途中でこまめに取り除く、打ち粉をはらう時には切れやすい裾の部分から先に落とすなど。ちょっとしたことにも気を配る細やかさが端正な味わいにも表れている。
打ち上げた蕎麦をいかに茹でるか。それもまた味わいを大きく左右する気の抜けない工程だ。ここにも吉川さんならではの工夫があった。蕎麦釜にセットされたのは、揚げざると呼ばれる取っ手付きのざる。このなかで蕎麦を茹でれば、タイムラグなしで一気に引き上げられるという。
「茹で時間は蕎麦によって異なりますが、ほとんどが30秒から45秒の間。1秒の違いで仕上がりが変わるので、それを避けるために揚げざるの中で茹でる方法を考えました。これなら釜から掬い上げるときのダメージもなく、特にデリケートな粗挽きには最適。少量ずついろいろな蕎麦を茹でるのにも便利なんです」
盛り付けも丁寧で美しく、最後まで隙は一切見当たらない。蕎麦職人の鑑とは吉川さんのような人を指すのだろう。
蕎麦だけでなく汁についても抜かりはない。
もり汁のかえしに使うのは、長野県松本「大久保醸造」の“濃口醤油”と“再仕込醤油”、「養命酒製造」の“家醸本みりん”、甜菜糖と三温糖。これに福島県の酒蔵「大木代吉本店」の“こんにちは料理酒”を少し加えているという。
「僕が理想とするのは、甘ったるさがなく、後味がすっきりとして蕎麦の邪魔をしない汁。懇意にしている鰹節屋さんに相談しながら今のかえしになりました。特に砂糖は開店当初、グラニュー糖を使っていたのですが、今ひとつ納得がいかない。上白糖や黒糖などいろいろ試した結果、体に優しい甜菜糖と、自然につくられている三温糖に落ち着いた。“こんにちは料理酒”の蔵元があるのは福島県出身の父は生家の近く。親近感もあって使うようになりました。かえしに日本酒を使うことはあまりないのですが、少し加えるとまろやかになるんですよ」
一方、だしはカビづけして熟成させた本枯鰹節の雄節と雌節に亀節をブレンド。雄節は鰹の背側の身で脂肪分が少なく上品な味に、雌節は腹側で脂肪分がありコクのある味になる。亀節は小型の鰹の半身でつくった節のこと。すっきりとしながらも旨味の濃いだしがひける。さらに、本枯の雄節と雌節でも一本釣りの鰹と巻網などで獲った鰹の2種類を使っているというから、鰹節だけで5種類!これらに羅臼昆布と福岡の干し椎茸もプラスして厚みのある旨味を引き出している。
そんな贅沢なかえしとだしを合わせ、寝かせること1週間以上。深い旨味がありながらもキレのいいもり汁は、個性派揃いの蕎麦を全方位で受け止める。面白いのは、もり汁につけると蕎麦の甘味がより鮮明になること。塩で手繰るのもいいけれど、蕎麦ともり汁が織りなす味わいを楽しまなければもったいないとつくづく思うこの頃だ。
文:上島寿子 写真:岡本寿