伝統と革新~蕎麦を紡ぐ人々~
「藪蕎麦宮本」蕎麦打ちの美学

「藪蕎麦宮本」蕎麦打ちの美学

シンプルながら奥が深いと言われる蕎麦の世界。味わいを決める要素はいくつもあり、なかでも大きな柱となるのが蕎麦打ちだ。今回は打ち場に入り、凛として美しい蕎麦の秘密に迫った。

独学で身につけた才色兼備の手打ち蕎麦

「オラ、下手くそだで、恥ずかしいよぉ」
「藪蕎麦宮本」の主人、宮本晨一郎さんが、いつもうつむき加減でそう話すのは蕎麦打ちについて。一縷の隙もない蕎麦を打つ人から、そんな言葉が出るとは信じがたい。
聞けば、理由は単純。蕎麦打ちを習った経験がないから、打ち方、つまり“型”が正しいかどうか、自信がないというのである。

宮本さんが修業していた1970年代は機械打ち蕎麦の全盛期。修業先の「池の端藪蕎麦」もご多分に漏れず機械で蕎麦を仕立てていた。手打ちの技術で唯一の指針となったのは、同じ上野にある「蓮玉庵」の店主が修業先に来て実演してくれた蕎麦打ちだ。そのとき目にした工程を脳裏に焼きつけ、あとは自分なりに工夫をし、独学で精度を高めてきた。

今回は特別に宮本さんの蕎麦打ちを見せてもらう機会を得た。ご披露いただく前に、手順をざっと説明しておこう。
まず行うのは、木鉢の仕事。蕎麦粉を混ぜながら水を行きわたらせる。蕎麦屋用語では“水回し”という工程だ。蕎麦粉が水を含んだらまとめてよく練り、その後、打ち台に移して麺棒で薄くのしていく。反物状の薄い生地ができたら、たたんで蕎麦包丁で切る。うどんのように足で踏んだり、生地を寝かせたりすることはなく、至ってシンプルだ。
それだけに、ちょっとした手加減で味わいが変わり、ともすれば、つながりの悪い短い蕎麦になることも。打ち手の技量が端的に出るのが蕎麦なのである。

そうした蕎麦打ちをする部屋は、通路を挟んで調理場の向かいにある。右手に木鉢を置いたスペース、左手にはのしや切りを行う打ち台。くるりと振り向けば次の作業に移れる効率のいいレイアウトだ。

打ち場
打ち場の右手にある木鉢を置いたスペース。壁には蕎麦包丁がずらりと並ぶ。手挽きの石臼もここに置かれ、製粉場所にもなっている。ちなみに、脱穀機や電動の石臼などは店の裏手の製粉室に。
打ち場
木鉢の脇のホワイトボードには粉や蕎麦打ちに関する記録がびっしり。「サクラさく」など時事ネタや趣味の車の覚書も。
打ち台
左手にある打ち台。右側にならぶ麺棒は、のし棒のほか、生地を巻き取るための1本も。素材は硬くて重い樫が多い。

宮本さんが打ち場に立つのは、朝9時頃。自宅は店の2階にあり、8時に起きてコーヒーを飲んでから、ここに降りてくるのが40年来の日課だ。

手早く繊細な「水回し」

1度に打つ量は蕎麦粉1升弱。グラム換算すると1kg弱になるが、宮本さんは枡ですくってざっくり入れる。わざわざスケールで測ったりはしない。水もしかりで、ボウルに目分量で入れておく。計量カップはどこにも見当たらないのはそのためだ。
「だって、蕎麦粉の状態はその時々で変わるし、気温や湿度も毎日違うじゃん。自分の勘のほうが信頼できるで」

注いだ水を指先で散らすようにしながら、宮本さんは丁寧かつ迅速に蕎麦粉の一粒一粒に行きわたらせる。その過程で粉の感触を確かめ、時折、指先に水をつけて微調整はするものの、継ぎ足しはしない。

その様子を眺めながら、長女のひろみさんが言う。
「『水の量は一度で決めろ』が父の持論。水をどのタイミングで含ませるかで味や喉越しが変わってしまうからだと思います。道理はわかるけれど、実践するのは難しい。だから、父が打つ時に加水した量を測ってみたり、蕎麦打ちの本を買って勉強したり。水の量は、5合に対して200CCぐらいでした」

水まわし
木鉢に広げた蕎麦粉に目分量で水を注ぐ。加水率はその時々で異なるが、40~45%になっていることが多いそうだ。
水まわし
両手の指先で蕎麦粉を細かく混ぜながら水を含ませる。蕎麦粉は水を吸いやすいので、もたもたしているとダマが発生。スピード勝負だ。
宮本さん
「大事なのは、満遍なく水をまわすこと」と宮本さん。時折、両手で蕎麦粉を持ち上げ、擦り合わせるようにして水を浸透させる。
蕎麦粉
砂状だった蕎麦粉が、徐々に砂利ぐらいの大きさになり、粘りも出てくる。全体に水がわたったことが確認できたら、手のひらを木鉢に押し付けるにようにしてまとめていく。

コシと艶を生む「練り」

水回しを終えたら、練りの工程だ。水を含んだ蕎麦粉をひとつの塊にくくり、両手で外から内へと何度も揉み込んで、コシと滑らかな艶を出していく。この工程ではだんご状の蕎麦生地の中心に菊の花のようなしわができるところから、陶芸と同様に、“菊練り”の名がついている。
宮本さんの動きはエネルギッシュ。腰を入れながら、両手でぎゅっぎゅっと力強く練り上げる。この一連の作業が真珠のような光沢を生み出すのだろう。

蕎麦粉
水を含んだ蕎麦粉は自然と小さな塊に。両手でまとめながら練りの工程に入る。
菊練り
塊になった蕎麦生地を内側へと空気を抜きながら織り込むのが“菊練り”。力強い手の動きは、まるで命を吹き込むかのようだ。
へそ出し
練りを終えたら、そのまま円錐形に整える。“へそ出し”と呼ばれる工程だ。
宮本さん
へそ出しをした生地を上から潰して平らにする。均一に平らにすることが大切。
生地
円盤状に形を整えた生地はしっとり滑らか。ここで形にゆがみがあると、後ののしにも影響があるそうだ。

細くしなやかな蕎麦に仕上げる「のし」

水回しと練りを終えたら、打ち台へと移動。のしの工程に入る。まずは手のひらで生地を広げ、その後、のし棒を転がして薄く薄くのばしていく。のし方は人によってさまざまで、宮本さんの場合、反物のように縦方向に長くのすのが特徴だ。あまりないスタイルだが、このほうが香りが立ちやすいという。無駄のない動きも見事。まさに熟練の名工ならではだ。

生地
打ち台に打ち粉をふって生地を手でのす。生地を回転させながらまずは外周をのし、最後に中央を抑えると均一になりやすい。
生地
上から下へとのし棒をあてて平らにする。向きを90度ずつ変えながら、この作業を数回繰り返す。
生地
82歳の今も動きに澱みは一切なし。蕎麦を打つ時はラジオを流していることが多いそうだ。
生地
やさしくかつ的確にのし棒を操る手には、蕎麦職人としての年輪が刻まれている。
生地
円形にのした生地は、麺棒に巻き取っては転がして四角に成形。これを“四つ出し”という。四角くした後もさらにのし棒を細かく動かして目指す薄さにしていく。このとき、反物のように縦方向に長くのすのが宮本さんの手法だ。

最後の「切り」で凛々しく端正な蕎麦へ

のし終えた生地に打ち粉を振ってたたんだら、いよいよ最終工程の「切り」へ。“こま板”という木板を生地にあて、それに沿わせながら蕎麦包丁を入れていく。このとき、宮本さんが大事にしているのは、こま板を鳴らしてリズムよく切ること。
「こま板を鳴らすには蕎麦包丁を入れる角度が重要なんですね。つまり、正しい角度を保ちながら一定のリズムで切っていけば、自然と幅がそろった蕎麦になる。父のように、カツカツカツと小気味よいリズムで細く切るのは、簡単ではないのですが」(ひろみさん)

生地
薄くのし終えた生地は打ち粉をふって、3回折りたたんで切りやすくする。
生地
打ち台にまな板をセットして、たたんだ生地を置く。
生地
こま板を当て蕎麦包丁の重みを生かしながら、リズミカルに裁っていく。切り幅は1mmほどの細さだ。ちなみに、現在、愛用するこの蕎麦包丁は40年選手。
作業風景
切った蕎麦は両手でそっとほぐす。この状態ですでに美しい。
作業風景
余分な打ち粉を払って、“生舟”と呼ばれる保存用の木箱へ。
作業風景
木製の生舟は蓋が付き、ほどよい湿度を保てる。宮本さんは開店以来、塗りの生舟を愛用。1回の蕎麦打ちでこの生舟がいっぱいになるほどの蕎麦が出来上がる。

父から娘へ。受け継がれる蕎麦打ちの技

蕎麦打ちは82歳になった宮本さんがメインで行なうが、ひろみさんが手ほどきを受けていた時期もあり、数年前からは次女の晶代さんも打ち場に立っている。

「父は見て覚えろ派なので、私も妹も一から教えてもらったことはないですね。練った生地を触らせてもらい、その感触を覚えるぐらい。ただ、たまにぼそっと『これが大事』と言うことがあるんです。たとえば、菊練りをするときに『しっかりしめろ』とか、のしの四つ出しをするときもやはり『しめろ』って。きっちりときれいに行うことが、父にとっては『しめる』という言葉になっているみたいです」(ひろみさん)

たとえ娘であっても打ち上がった蕎麦に対する評価は厳しく、宮本さんが頷かなければお蔵入り。蕎麦打ちを学び始めた頃は賄いになることも多かったそうだ。
「でも、最近は妹の蕎麦にOKを出すことが増えました。なにも教わってないのに父のようなきれいな蕎麦を打つから、逆にびっくりするぐらい」とひろみさん。
父から娘へと技の継承がされつつあるようだ。

作業風景
次女の晶代さんは蕎麦打ちの腕前をめきめき上げ、今では宮本さんの片腕的存在に。

打ち上がった蕎麦を茹でて盛り付けるまでの工程にも、宮本さんの矜持が随所に示されている。これについては、「藪蕎麦宮本」の仕事 前編で紹介しているのでご一読いただきたいが、さらに驚いたのは蕎麦を盛り付けるざるについてだ。
きめ細かい編み目が美しい竹ざるは、千葉から取り寄せる手仕事の品。大きさや深さを指定してつくってもらっているという。

作業風景
網目が美しい艶やかな竹ざる。蕎麦を引き立てる名脇役だ。

ここで注目したいのは色である。毎日使えば、当然、飴色が黒みを帯び、それもまた味のうち……かと思いきや、色変化は宮本さんのなかではNG。
「だって、蕎麦がきれいに見えんで。どんなことも美しさが大事じゃん」
というのがその理由だ。
少しでも黒ずんできたら新調し、常に新陳代謝をさせている。それもまた、宮本さんの美学を象徴するエピソードといえるだろう。

作業風景
左が新たに注文した竹ざるで、右は宮本さんから引退勧告を受けた一枚。新品に比べて黒みを帯び光沢もなくなってはいるものの、まだまだ現役でいられそうだ。

店舗情報店舗情報

藪蕎麦宮本
  • 【住所】静岡県島田市船木253‐7
  • 【電話番号】0547‐38‐2533
  • 【営業時間】11:30~14:00(ただし売り切れ仕舞い)
  • 【定休日】月曜日(祝日の場合は翌日)ほか不定休あり
  • 【アクセス】JR「六合駅」より車で10分

文:上島寿子 写真:岡本寿

上島 寿子

上島 寿子 (文筆家)

東京生まれで、銀座の泰明小学校出身。実家がビフテキ屋だったため、幼少期から食い意地は人一倍。洋酒メーカー、週刊誌の記者を経て、フリーに。dancyuをはじめ雑誌を中心に執筆しています。