伝統と革新~蕎麦を紡ぐ人々~
「藪蕎麦宮本」の仕事 前編

「藪蕎麦宮本」の仕事 前編

江戸時代に花開いた蕎麦文化は今、百花繚乱の時代に入っている。店それぞれが描き出す蕎麦の世界は自由で多彩。その原点となる江戸前蕎麦を静岡県島田市で守り続けているのが「藪蕎麦宮本」だ。主人の宮本晨一郎さんは80歳。老舗で培った技と独自の美学が光るその仕事を追った。

静岡県島田市で受け継がれる「江戸前の粋」

東名高速道路の吉田インターを下りて県道を進む。交通量の多い幹線道路の両脇には大型のチェーン店が立ち並び、地方都市にありがちな雑多な景色が車の窓を流れていく。
ところが、目的地の「藪蕎麦宮本」に着くとその喧騒が霧散し、目の前の景色も一変した。
玉砂利敷きの駐車場の奥にひっそりと佇むのは、鄙びた数寄屋造りの建物。「蕎麦商」の看板と風に揺れる藍染の暖簾が、慎ましくお客を迎え入れる。引き戸の先にはほのかに光が差す土間が広がり、鉤形に設えられた客席はすべて座敷。障子、茶箪笥、調度品の器、墨で書かれた品書きまで江戸情緒を漂わせる。まるで異次元ポケットに吸い込まれたかのようだ。

土間
座敷
柱時計

ここにはもう何度も訪れているが、行く度に「奇跡」という言葉が浮かんでくる。主人の宮本晨一郎さんが故郷の静岡県島田市に今の店を開いたのは40年前。大井川沿いを走る蒸気機関車や茶畑といった名物はあるものの、蕎麦文化とはおよそ無縁の土地だ。その場所で、東京でも薄れつつある江戸前蕎麦の伝統を頑なに守り続けている。

開店したのは40歳のときというから傘寿の80歳。年が明けると間もなく81歳になる。それでも毎日、玄蕎麦から粉を挽き取り、蕎麦を打ち、暖簾がかかると釜の前に立つエネルギーにも舌を巻く。弟子やスタッフが大勢いる店ならまだしも、サポートするのは妻の節子さん、長女のひろみさん、次女の晶代さんの家族のみ。第一線に立つ江戸前の蕎麦職人としては、私の知る限り最古参だ。

店主

そんな宮本さんの原点が、9年にわたって修業を積んだ「池の端藪蕎麦」である。「藪」は江戸蕎麦の三大系譜の一つ。「池の端藪蕎麦」は惜しくも5年前に閉店したが、藪御三家の一角をなす老舗だった。屋号の通り、店が位置していたのは上野・不忍池のすぐ近く。修業時代の話になると、宮本さんは懐かしそうに目を細める。
「店の近辺には寄席や花街があるから噺家や芸者衆もよく来てね。華やかだったよぉ。夜道を歩くと見番から三味線の音が聞こえてくる。いい時代だった。戻りたいぐらいだよ」
それまで働いていた地元・島田の蕎麦屋はうどんや丼物もある大衆店。蕎麦しか置かず、一杯呑んで蕎麦で〆るというスタイルに若かりし頃の宮本さんは目を見張った。洒脱で華やかでどこか艶っぽい、江戸前の粋な蕎麦屋。それが宮本さんの追い求める蕎麦屋の原風景になったのである。
ちなみに、当時の蕎麦屋は機械打ちが主流。「池の端藪蕎麦」も機械で打っていたが、ある日、同じ上野にある「蓮玉庵」の店主がやってきてみんなの前で手打ちを実演してくれたことがあったという。
「後学のために池の端のおやじさんが頼んでくれてね。手打ちとはこういうものかと勉強になった。でも、手打ちを学んだのはそれっきり。あとは見様見真似で独学で覚えたでよ」
「池の端藪蕎麦」の店主は面倒見のよい粋人だったのだろう。修業を始めた頃、料亭「つきじ田村」に連れていってもらったこともあるという。
「料亭なんて初めて行ったけど、店の雰囲気にも器や盛り付けにも感激したねぇ。それから器や建築の本を買って勉強するようになって。あと、池の端のおやじさんはよくステーキを食べていた。『自分も店を持たないとこうはなれない。いつかこうならないと』って。それも励みになったね」

こうした修業時代の9年間が「藪蕎麦宮本」のすべてに色濃く投影されている。先述の江戸情緒溢れるが店の設えしかり、蕎麦もしかりだ。
生粉打ちや粗挽き蕎麦がもてはやされる時代にあっても、宮本さんはするっと軽快に手繰れる二八蕎麦を身上としている。
日々打つ蕎麦は2種類。電動の石臼で挽いた粉で打つ“ざるそば”はつやつやと光沢を放ち、真珠のように美しい。清涼な香りがふわりと鼻に抜け、たおやかに喉を滑り落ちる。

蕎麦
ざるそば1100円。瑞々しい風味と喉越しが楽しめる。

もう一つの“手挽きそば”はその名の通り、手動の石臼をゴロゴロと回し、黒い殻ごとを粉にする。漆黒の光をほのかに宿した蕎麦は、しなやかな舌ざわりとともに甘味と香ばしさがこぼれ出す。いわゆる田舎蕎麦だが、細打ちにして洗練させたところに、宮本さんの美学が表れている。

臼で粉を挽く男性
蕎麦
香ばしい手挽きそば1100円。ざるそばとは盛り方も変えている。

蕎麦の盛り付けも惚れ惚れするほど見事だ。ざるに盛る蕎麦の量は三箸半、つまり3口と半分がこの店の流儀。「量が少ない」とさんざん言われてきたが、増やそうと思ったことは一度もないという。
「この量なら一箸目と同じ状態で最後まで手繰れるじゃんね。もっと食べたかったらお代わりすればいい。そのほうが断然旨いで」
その都度、茹でるほうが店の手間は増えるが、「まずいものは出したくない」という宮本さんの信念だ。
蕎麦をゆでる釜前の仕事も同様で、どんなに忙しくてもひと手間を省略しない。たとえば、洗った蕎麦はそのままざるで水をきってから盛り付ける店が多いが、宮本さんは必ず溜めざると呼ばれる竹のざるに少量ずつ“ちょぼ”に盛り分けてから、お客に供す平ざるに移す。こうすると水ぎれのよさは段違い。その証拠に、平ざるの下には一滴たりとも水が落ちない。

蕎麦をゆでる男性
ざるにあげた蕎麦
蕎麦のゆで加減を見る男性

蕎麦を出すときにお客が席を立っていたら、新しくゆで直すのも当たり前。ゆで上がりがちょっとでも気に入らなければ躊躇なくゆで直す。納得のいかないものを出すぐらいなら、店は開けないほうがいいと言う。
「とにかく仕事に厳しい人です。私たちが『これくらいなら問題ない』と思うことでも絶対に許しません」と長女のひろみさんが言うように、その厳しさが東京から200km以上離れた場所で「江戸前の粋」を守る砦となったのだろう。
当然のことながら、蕎麦を引き立てるつゆにも妥協はない。球体のようにまろやかで旨味の深いつゆはいかにして生まれるのか。その奥義を聞かせてもらった。

店舗情報店舗情報

藪蕎麦宮本
  • 【住所】静岡県島田市船木253‐7
  • 【電話番号】0547‐38‐2533
  • 【営業時間】11:30~14:00(売り切れ仕舞い)
  • 【定休日】月曜日(祝日の場合は翌日)
  • 【アクセス】JR「六合駅」より車で10分

文:上島寿子 写真:岡本 寿