「おきゃく」文化とは何か? 対談:日本文学研究者ロバート キャンベルさん×編集長・植野
「おきゃく」はシャッフルする場である。|「おきゃく」文化とは何か?①

「おきゃく」はシャッフルする場である。|「おきゃく」文化とは何か?①

さまざまな人が出入りし、全員が揃うのを待つことなく着いた人から飲み始め、すぐに席を移動してあちこちで盃を交わすのが「おきゃく」。こうした自由かつ効率的な“シャッフル”システムが、自然に人と人とを繋ぐ役割になっているのでした。

4年ぶりの本格開催となった「土佐のおきゃく2023」のプログラムの一部として開催された今回のトークイベントでは、「おきゃく」について二人の考察について参加者が熱心に耳を傾けていた。

「もてなし」と「もてなされ」が一体となっています。

植野 今日は高知独特の文化である「おきゃく」についてお話したいと思いますが、高知は何度目ですか?

キャンベル 10回以上来ています。高知は幕末から明治にかけて自由民権運動の本拠地だったので、文献調査のために来ていました。古い民家の倉庫や図書館で朝から夕方までずっと調査をするのですが、午後5時までしか仕事ができないんです。5時になると、みんな酒を飲みに行くから(笑)。毎日のように「おきゃく」をしていただいて……嬉しかったです(笑)。

植野 僕は30年以上前にある工場の落成式に来たのですが、体育館に机を並べて見事な皿鉢料理がずらりと揃って、昼間なのに偉い人たちも皆がんがん飲んでいる。これはエラいところに来てしまった、と思うと同時に、高知はなんて素敵なところなんだろうと(笑)。それから何度も高知に来て「おきゃく」に混ぜてもらっているうちに、「おきゃく大使」を仰せつかりまして。何度も体験されていると思いますが、「おきゃく」にはどんなイメージを持っていますか?

キャンベル 美味しいものを見ながら、つまみながら高知の日本酒を楽しく飲む、という素敵な場です。それに動きがあるのも面白い。たとえば座敷で宴会をやる場合、東京などだと一度腰を落ち着けると動かないですよね。自分のポジションで静かに飲みます。でも「おきゃく」はみんなよく動いて、あちこちで献杯、返杯を繰り返しますね。それに、しょっちゅう襖が開いて、「お邪魔しますよ」とか「あの人がいるって聞いたので」などいろいろな人が次々に入って来きますよね。

植野 僕も「おきゃく」の場で、酒を飲んだ後に名刺交換しているのを見て驚いたことがあります。みんな知り合いかと思ったら、初めて会った人でも旧知の仲のように自然に溶け込んで飲んでいる。非常に流動的というか、いろいろな人が出入りしながら場をつくっていくのも独特の文化ですね。

キャンベル 流れが独特ですね。東京だと宴会はみんなが揃うのを待って、酒を注文して、一番目上の人に挨拶してもらってから乾杯、という感じですよね。でも、高知は会場に着いた人が奥から座って、すぐ飲んでいます。全員揃ったところで乾杯をしますが、その前にある程度揃ったら乾杯してしまう。フリーでいいな、と思います。

植野 長い挨拶の間にビールの泡が消えていく悲しみを感じなくて済みます(笑)。

キャンベル 非常に文化的です(笑)。

植野 その方が合理的だし、いろいろな人が出入りすることが多いので、シャッフルする場なんですね。

キャンベルさん

キャンベル まさにシャッフル。イノベーションというと少し大げさかもしれませんが、新しい発想やひらめきはシャッフルによって起きると僕は思っています。ある研究所の所長をしていたときに、毎日のように会議をするのですが、僕がテーブルの誕生日席に座って、部長、課長、係長と順番に座っていって、実際に現場を回しているスタッフははるか遠くにいて見えない(笑)。だから偉い人から順に伝達していくような形になります。でも、コロナ禍になってオンライン会議になったら、画面上で全部シャッフルされちゃったんですね。偉い人が真ん中にいるわけではないし、席順もない。それがとても面白いし、問いかけや悩みを話し合える場ができた感じがしました。「おきゃく」はオンライン会議を先取りしていたんですね。出入り自由だし。

植野 この独特の宴文化の発信と継承を目的に、映画「おきゃく」を制作しようと高知のみんさんに呼びかけてリサーチもしているのですが、「おきゃく」についての資料が意外に少なくて、語源も不明です。古い資料を見ていると「お客」と漢字で書いてあるものもあればひらがなもあります。漢字の「お客」であれば、誰かをもてなすために宴を催すというシンプルな意味にも取れるのですが、神(じん)祭(さい)や冠婚葬祭なども含め幅広い機会に行われるので、それだけではないような。シャッフルすることもそうですし、参加者全員で場を上手に回していく流れが自然にできているので、「もてなし」と「もてなされ」の文化が混在しているような気がしています。かつては日本各地にこうした文化があったと思うのですが、今、日常に当たり前に存在しているのは稀有なことではないでしょうか。

キャンベル 特にスケジュールに支配されている都会では、効率よく様々なことをこなすことが優先されます。だから、2週間後にあの人とどこで何を食べようか、そのためにネットなどで調べて決めておく。それもクリエイティブなことかもしれませんが、「あそこの家でお祝いがあった」「あの人が久しぶりに帰って来る」「みんな集まっているらしい」といったことで宴を催したり人の家に行ったりするのは素晴らしい繋がりですよ。コロナ禍で高知でもそんな機会が減っていて、飲食店で少人数が集まるなどスタイルは変化しているとは思いますが。

植野 正月やお盆に親戚や知人が集まって宴を催して、その場に子供も加わって、大人たちの話を聞いたり、酒を飲んで酔っ払う様子を見ることで、大人の世界を少しずつ理解していくということが、かつては全国各地にあったと思いますが、いまはその機会がなかなかないですよね。それが高知には残っています。

キャンベル 若い人たちが酒を飲まなくなってきています。僕の肌感覚ではこの6、7年でガクンと減っていますね。酒を飲まなくてもみんなの場にいられるとか、無理やり酒を飲まされることがないなど、それはいいことでもあります。でも、それは植野さんがおっしゃるようなみんなで酒を飲んで集う場を体験していないから、酒を楽しく飲む雰囲気に出会っていないからではないかとも思うんです。高知では失敗も含めて大人の世界を見て子供が育ち、酒が飲める年齢になったら、一緒に飲みながら飲み方や楽しみ方を覚えていく。そこには酒盛りを超えた情操教育や社会訓練の意味もあるのではないでしょうか。
僕の祖父母はアイルランドからアメリカに渡った移民の出なのですが、親戚や友人が集まることが日常茶飯事で、必ずお酒が出て、飲めない人には紅茶やケーキが出るのですが、そこには子供達も参加して大人達に可愛がられたり、大人たちの失敗を見ながら育っていくんです。「おきゃく」に通じるものがあると思いました。

撮影:門田幹也(対談風景) 構成:編集部

ロバート キャンベル

ロバート キャンベル

専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。 主な編著に『よむうつわ』上・下(淡交社)、『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)、『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『東京百年物語』(岩波文庫)、『名場面で味わう日本文学60選』(徳間書店、飯田橋文学会編)等がある。YouTubeチャンネル「キャンベルの四の五のYOUチャンネル」配信中。