「おきゃく」で出される皿鉢料理は、高知の季節の食材や伝統料理が凝縮され、酒のつまみだけでなく甘いものや果物なども盛り込まれる全員参加型の料理。皿の絵柄を徐々に見せるという演出も施されている。こうしたもてなしは、利害関係を超越した人と人との結びつきを確認できることにもつながっています。
植野 「おきゃく」で供される皿(さわ)鉢(ち)料理は、大皿に酒のつまみを盛りつけたものというイメージがありますが、実は唐揚げや果物や羊羹など、お酒が飲めない人や子供でも食べられるものが入っています。「皿鉢と座布団があれば誰でも何人でもおきゃくができる」ということを聞いたことがありますが、まさに全員参加型の宴文化ですね。
キャンベル 僕は皿鉢のようなワンプレートの料理が大好きで、みんなで食べられるものは面白い。縮図的な構造の皿鉢料理は全体がまとまっているようで、それぞれの味わいに個性があります。一つの皿の中に宇宙が存在しているみたい。
ちょっと唐突な例えに聞こえるかもしれませんが、初めて高知に来た時、高知空港に向かって飛行機が降りていくときに美しい海岸線を眺めていたら土佐湾から山にかけての景色が大きなお皿に見えたんです。その夜に「おきゃく」で皿鉢料理を頂いたのですが、これは今朝空から見た景色と同じだ!と思いました。海の幸、山の幸が盛り込まれていて、高知の豊かな食材や風土や文化がここに凝縮されていると。
植野 我々はいつも皿鉢の中に入ってきていたんですね(笑)。
キャンベル そうですね(笑)。あとお皿がとってもきれいな絵付けをしたお皿ですよね。皿の絵柄が見えないくらい料理をぎっしり盛り込んで出して、料理をみんなでつまむと少しずつ皿の模様が見えてきて、ジグソーパズルのように徐々に模様が浮かんでいって、最後に美しい絵が現れるというすごい演出です。日本には懐石料理とか、卓袱料理とか、袱紗料理とか、多様なものがありますが、こうした演出は他にないような気がします。
植野 日本料理は皿に描かれた季節の絵柄が見えるように盛りつけますからね。「皿鉢は皿を食う」とか、「皿映え」という言葉もあるそうです。立派な大皿を持っていることがその家のステイタスになり、その絵柄を早く見せたいから家の主はどんどん料理を勧めることもあるとか。
キャンベル それも「おきゃく」のおもてなしですね。おもてなしは準備をするところから始まっていて、時間の経過の中でそれが現れていくものです。座敷をきれいにしたり、皿を用意したり、いろいろな料理をつくったりという事前の準備から始まり、宴が始まると食べ進むにつれて皿の美しい絵柄が見えてくるという経過も楽しんでもらう。煮物やウツボの唐揚げなどを食べながら、客はそこにかかる手間と時間に思いを馳せながら頂く。そして皿がきれいに見えるまで残らず食べるから何も残らない、その一期一会のありがたさを感じるのですね。僕も昨日、料理を食べながら、その丁寧さとそこにある空間の気持ち良さを感じました。
キャンベル 日本の文化は“飾る文化”です。部屋の調度品などもそうですし、料理にも装飾をします。これは日本だけではないかと思います。欧米では厨房で料理を整えて提供しますが、最終的にフォークとナイフで自分で仕上げをするスタイルで、料理や皿を見て何かを読み解くということがほとんどないですね。でも、日本では鎌倉時代末期から料理は愛でるものだったのです。本膳料理といって公家や武家が大切なお客様を迎えるときは、一人の前に多くのお膳を並べていました。でも実際にはそんなにたくさん食べられないから誰も箸をつけず、後で席を替えてもっと簡素にした袱紗料理を食べる。本膳料理は見るための料理だったんですね。そこからアレンジが加わって懐石料理ができ、江戸時代に料理屋が誕生し、我々にも馴染みがあるような料理へと変化していくわけですが、このような成り立ちであったため、日常の和食に至るまで装飾性が高い。御恩であるとか、忠誠であるとか、人間関係をお互いに確認し合うための関係性を可視化させるのが見る料理、見せる料理が基本だったのです。
植野 皿鉢料理もそのルーツは本膳料理にあると言われていますが、人間関係を確認するためのものという意味ではまさにその意味合いが残っていますね。僕は「おきゃく」は“確認の場”ではないかと思っています。年中行事の確認、親戚や知り合いが揃うことの確認、その時季の食材や料理が食べられることの確認、郷土料理や酒が継承されていることの確認、そして自分がその場にいられることの確認。さらにコロナ禍を経て、人と人との絆の確認という要素がより大きくなって、そういう意味では「おきゃく」の重要性がより高まったのではないかと思っています。
キャンベル 現代人には確認事項がすごく多くて、情報技術や医学の進歩などで簡単に確認できるようになったのですが、最後の確認事項は生体としての安否確認ですね。メールやSNSでやり取りできるから生存確認はできますが、顔色がどうかとか表情がどうなっているかとか、笑顔なのか怒っているのかとか、リアルにお互いを見て話をして確認することが我々のメンタルにはとても重要で、それは対面でしかできない最終確認です。そのような場にある皿鉢料理というのは天才的に素晴らしいですね。利害関係がある人達が集まったとしても、テーブルの真ん中に皿鉢料理があって酒を酌み交わせば、利害や損得を超えて通じ合える繋がり合える。繋がり直すこともできると思います。
植野 「おきゃく」には独特の凝縮感がありますね。みんな楽しく酒を飲む場なのですが、僕は「刹那」という言葉を思い浮かべてしまうんです。冠婚葬祭や神祭など楽しいことも悲しいことも、その一瞬の場に凝縮する。過去の出来事や未来の不安など、みんないろいろなことを抱えているけれど、いまのこの時間に人が集まって一緒に過ごす時間と場を大切にする。だからこそ笑顔が大きくなり喜びが深くなり、みんなで酒を酌み交わすことができる。それが「おきゃく」なのではないかと、勝手に思っています。
キャンベル そうですね。僕は江戸時代から明治初期のことをずっと研究しているのですが、江戸時代の人達は、楽しいことの中に憂いがある、いずれ楽は苦に転じるということを常に意識していて、でもそれは打ち消すことができないから、生活の仕方や人間関係などいろいろな“備蓄”をするわけですね。今日楽しいことがあっても明日病気になるかもしれない、嬉しいことと苦しいことは地続きであるとわかっていて、その備えが日常の暮らしの中に上手に埋め込まれていました。現代の日本人はすごくプラスに、前向きに「イエー!」みたいな(笑)生き方をしていて、これは欧米に似た幸福感の持ち方なのですが、一期一会のありがたさを感じにくくなっているかもしれません。
植野 高知の人は嬉しいときも悲しいときも「おきゃく」をします。明日は何か起きるかもしれない、あるいは明日はもっと良くなるかもしれない、いろいろな思いを内に抱えながらやっているような気がします。それが、その日、その時を精一杯生きるといったことに繋がっているのかもしれません。高知にはラテン的な明るさがあると言われますが、いろいろなものを抱えながら場をつくっているからこその深い楽しさや濃い美しさがあるし、だからこそ楽しく、大切な時間になる。
撮影:門田幹也(対談風景) 構成:編集部
専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。 主な編著に『よむうつわ』上・下(淡交社)、『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)、『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『東京百年物語』(岩波文庫)、『名場面で味わう日本文学60選』(徳間書店、飯田橋文学会編)等がある。YouTubeチャンネル「キャンベルの四の五のYOUチャンネル」配信中。