旅行作家の石田ゆうすけさんは、中国を訪れたときに豆腐料理のバリエーションに驚いたといいます。ある日、大仰な名前に惹かれ、頼んでみた料理の正体とは――。
豆腐は奈良時代に日本に伝わったとされるが、その起源はというとやはり中国で、紀元前2世紀に生まれたそう(諸説あり)。そんな豆腐の発祥地、中国ではどんな田舎の安食堂でも多彩な豆腐料理がメニューに並んでいる。
ある村の食堂では「拉麺豆腐」という文字を目にした。頼んでみると、干した豆腐を麺状にして戻し、ゴマ油とパクチーを和えたもので、「豆腐干絲」とも呼ばれる料理だ。最近は日本でもちょくちょく目にするようになったが、このときの僕はそんな調理法があることも知らず、シコシコしたまったく新しい歯触りに目を丸くし、この国は豆腐のポテンシャルをどれだけ引き出すつもりなんだ、というちょっと奇妙な感慨を覚えた。
朝食にも豆腐は欠かせなかった。
「豆腐脳」という料理がある。人を馬鹿にしたような名前だが、その看板があちこちに立っている。かたまりかけの豆腐、いわゆるおぼろ豆腐にパクチーや干しエビなどを散らし、醤油ベースのつゆをかけたもので、中国全土で朝に食べられている。
柔らかすぎて箸ではつかめないので、茶碗蒸しのようにスプーンで口に流し込む。なんの歯ごたえもなく豆腐は消えていく。霧のように模糊として、旨い不味いの判断もつかない。ほとんど「無」に近い。ところが、いつの間にか自転車で旅しながら毎朝「豆腐脳」の看板を探すようになっていた。なめらかな舌触りと消えたあとに浮かぶ淡い大豆の香り、それらとつゆやトッピングとの絡みが妙に癖になる。
豆腐脳は「豆腐花」や「豆花」と書かれることもあり、地域によって味やトッピングも変わる。中国南部や台湾では甘く煮た豆やタピオカなんかをのせて甘いシロップをかけ、スイーツとして出されている。これはこれで奥深い味なので、次の回で書きたいと思うが、このように、日本だとおそらく何十年、あるいは何百年かかっても生まれなかっただろうと思える豆腐料理が中国にはわんさかとあり、豆腐という食材の捉え方と発想が根っこから違うんだなと感じていた。
広大な大陸をずっとひとりで走っていた僕にある日、仲間ができた。ゴビ砂漠の町、嘉峪関の宿で会ったノリという日本人の学生だ。彼はレンタサイクルを借り、1日かけて僕と共に町周辺を観光したあと、こんなことを言った。
「自転車を買います。一緒に行っていいですか」
愉快な男だったので快諾したのだが、結果的に中国でのペアランは孤独を癒してくれる以上のものがあった。食だ。中華はもとより複数で食べるのに適した料理だし、しかも彼は中国に留学して中国語に通じていたので、これ以上ない相棒だった。
同行が決まった夜の“壮行会”から、早くもその楽しい面があらわになった。
中国のメニューは漢字表記だから日本人はなんとかなる、と思う人もいるだろうが、そう簡単じゃない。たしかに麻婆豆腐や餃子など日本語と化している料理も中にはあるが、中国語を解さなければ見当もつかない名前がほとんどだ。入国間もない頃はおもしろがってあてずっぽうに頼んでいたが、滞在が長くなるにしたがって頼む料理も固定化し、そのせいで食事時の高揚感も減ってきていた。
そんな僕に変わったものを食べさせようと考えたのか、ノリが頼んだのは「虎皮辣椒」と「熊掌豆腐」だった。虎と熊か、そりゃたしかにおもろいな、中国だけにほんとに虎の皮と熊の手が出てきたりして、なんて笑っていると、「虎皮辣椒」から運ばれてきた。炒めたピーマンに醤油ダレをかけたものだった。名前の由来はノリも知らないらしい。ピーマンの表面がまだらに黒く焦げて、虎皮に見えなくもないが、ちょっと苦しい……。
次いで「熊掌豆腐」が来た。厚揚げと野菜と豚肉を炒めたものだ。なんのことはない、大衆食堂のド定番「家常豆腐」ではないか。拉麺豆腐や豆腐脳もだが、同じ料理でも中国は地域や店によって名前が変わるからややこしい。そのうえ“虎皮”と比べてこっちは何が熊掌なのかさっぱりわからない。
「どっちもおもろいのは名前だけやないかい!」
と関西人の習性で突っ込み、ノリも「いや別にウケを狙ったわけやないんすけど……」と頭をかいていたが、まあでも字面と中身のこの温度差がいかにも中国だよなあ、と思ってちょっとおかしくなった。中国語で「怪人」は「変わり者」だし、「愛人」は「配偶者」なのだ。
文・写真:石田ゆうすけ