「ら すとらあだ」のおまかせコースに組み込まれるのは、産地ごとに打ち方を替えた蕎麦。見た目も味わいもさまざまな蕎麦は、驚嘆と歓喜の連続だ。一体、どのようにつくられているのか。舞台裏を覗かせてもらった。
「ら すとらあだ」の蕎麦を手繰る度、浮かんでくるのは「無垢」という言葉だ。個々の蕎麦の実が持つ味わいを、外連なく“蕎麦切り”として表現している。その味は一期一会。同じ産地の蕎麦でも、次は違う表情を浮かべている。そんな刹那的なところにも心惹かれてしまうのだ。
蕎麦打ちに使う粉はすべて自家製粉の石臼挽きだ。ただし、蕎麦屋でよく見かける電動の石臼ではなく、使うのは手挽きの石臼だけ。店の階段を上った先に石臼が置いてあり、それをゴロゴロと手で回して粉を挽くのが日比谷さんの日課だ。
「機械に頼らず、自分の体で表現できる蕎麦を出したいと開店する前から思っていました。蕎麦屋はそれが可能な業種でもあり、そのほうが自分も面白いので。手挽きの石臼は2台あり、階段の上に置いてあるものを使うのがもっぱら。もう1台は目立てがすりへって、ものすごく粗い面白い粉が挽けるのでスポット的に使っています。尊敬するお蕎麦屋さんに紹介してもらって買ったドイツ製の電動臼もあるんですが、使うのはイベントのときだけですね」
製粉にかけるのは毎日3~4時間。営業の後、次の日に使う分を挽いておくことが多い。疲れた体で、しかも深夜に、石臼を回し続けるなんて考えただけで睡魔が襲ってきそうだ。
「慣れですかね。店を開いて10年経ち、特にコースに絞ってからは自分のペースを掴めるようになりました。ただ、一度に何種類もの粉を挽かなければならないので、作業量は以前よりもかなり増えてしまった。手挽きをするとき、精神統一をして石臼に向かうお蕎麦屋さんもいるのですが、自分は雑念だらけ(笑)。挽いている間はラジオを聴いたり、スマホで映画を流して音声だけ耳に入れたり。そのほうが集中力を保てるんです」
挽いた粉はふるいにかけず、そのまま打つのが日比谷さんのやり方だ。自然の味をそっくりそのまま活かしたいのだという。
店の2階にある打ち場に立つのは営業前。覗かせてもらうと、蕎麦打ちにも日比谷さんならではの個性が炸裂していた。まず違うのは蕎麦粉の量。一般的な蕎麦屋では1~2kgぐらいを一度に打つが、少量多種を出すこの店の場合、多くても300gほど。予約の人数によってはその半量だったり、コースの趣向に応じてわずか50~60gで打つこともあるというからびっくりだ。
少量ということもあって、打ち方もまるで違う。蕎麦粉に水を注いで全体に行きわたらせたら、ぎゅっと手のひらを押し付けるようにまとめていく。水分量の調整は水で湿らせた手でペタペタペタ。化粧水を肌に馴染ませていく感じである。打つ量が少ないのでこのほうが微調整しやすいのだとか。
さらに、一般的な蕎麦打ちでは水回しをした生地を円錐形にまとめ(これを「へそ出し」という)、上からぎゅっと潰して円盤状に広げる工程は大胆にカット。ざっくりと丸くしたら完了だ。
蕎麦の生地ができたら、ここから延しの工程へ。麺棒を転がしてまずは丸く広げてから、四つ出しといって四角形に整えていく……のかと思ったら、いきなり四角く延し始めた。しかも、形は細長い帯状。文字通りの型破りだ。
「量が少ないこともあって四つ出しはいらないかなと思って。縦に長く延すのは、香りが立って甘味も増すため。あくまでも経験値で、なぜそうなのかはわからないんですけどね。蕎麦打ちの工程が1から10まであるとしたら、僕のやり方はいろいろなところを吹っ飛ばしている。でも、結果的においしくて、お客さんが満足してくださるならそれでいいと思っています」
薄く延し終えたら、打ち粉を振ってたたんで、蕎麦包丁で切る。最初は細く細く、中盤は太くして、最後はひらひらのリボン状。瞬く間に3タイプの蕎麦が出現した。これをコースに組み込んでいくわけである。
さまざまな形状の蕎麦のなかで、どの産地でも必ずつくるのが7~8mm幅の平打ちだという。
「実はこれ、自分にとってはありがたい蕎麦なんです。僕の蕎麦は加水が多く柔らかいので、蕎麦を切っていると最後のほうはどうしても潰れてきてしまう。その部分を平打ちにすることで、最後まで生かすことができるんです。同じ平打ちでも玄挽きか、二八か十割かといったところで味わいは変わり、それを混ぜて茹でたのがランダム蕎麦。ほかにはないのでお客さんも喜んでくださるから、いつの間にか定番になりました」
2階の打ち場で蕎麦を仕立てたら、1階に降りて営業開始。1話でも書いた通り、茹で加減だけでなく、洗い加減や最後の締め加減も産地に応じて巧みにコントロールしていく。細打ちはきゅっと締めて可憐に、太打ちや平打ちはぬめりを残してエロティックに。そんな法則が日比谷さんの頭の中では出来上がっているようだ。
こうして一連の作業を繰り返すだけでも骨が折れるが、日比谷さんの場合、その日その日で蕎麦の組み合わせを一から考えるというクリエイティブな要素も加わってさらにハードルは高くなる。けれど、どこか楽しそうなのはどうしてなのだろう。
「確かに大変なところはあるのですが、毎回、自由に設計できるからワクワクするんです。蕎麦打ちもどういう麺状に仕上げようかと考える楽しみがある。日々目指しているのは、今、自分が持っている道具で表現できる蕎麦。そのなかには創意工夫を詰め込むことで、自分らしい蕎麦になると思っています」
もちろん、つらいと思う場面がないわけじゃない。その一つが夏の暑さ。2階の打ち場にはエアコンがなく、扇風機を回しても出てくるのは温風……。
「蕎麦にダメージを与えないよう水回しに使う水はキンキンに冷やすなど工夫をしていますが、何より自分自身がへばってしまう。夏だけは涼しい地域で蕎麦屋をしようかとか、夏は蕎麦をお休みにして素麺や冷やしカレーラーメンを出そうかとか、あれこれ考えてしまうぐらい過酷です」。
さらに、開店から10年を経て、体力勝負の手挽きをいつまで続けられるのかという不安が頭をもたげることもある。
「蕎麦ありきの店なので、それがしっかりとつくれなければ話にならない。リスキーではありますが、体が動かなくなるまでは手挽きを貫こうと覚悟を決めています」
文:上島寿子 写真:岡本 寿