蕎麦屋に対する固定観念を悠然と払いのけ、新しい蕎麦の世界を表現する中野坂上「ら すとらあだ」。そのユニークさはおまかせで繰り出される酒肴にも表れている。今回は多くの人たちを魅了する蕎麦前を紹介しよう。
「ら すとらあだ」のメニューはおまかせのコース(8800円〜)のみ。蕎麦屋にはあまりないスタイルだ。前回、紹介した産地や打ち方の違う蕎麦の前には酒肴10品が用意されるのだが、蕎麦屋につきものの玉子焼きや天ぷらを出していないのも珍しい。
「誰もが思い浮かべるお蕎麦屋さんのスタイルは、すでにたくさんお店があるじゃないですか。そういうお店は大好きですし、お客さんとして行くのは楽しいけれど、自分がやる必要はないかなと割り切っていたんです。開店当初はアラカルトもあったのですが、できる範囲のことのびのびとやっていくために削ぎ落としたのが今のおまかせのコースなんです」
では、そのおまかせではどの方向にベクトルを向けているのだろうか。日比谷さんに訊くと、「お野菜とおだしの料理屋です」という答えが返ってきた。
確かに、コースの先陣を切るのは小さなカップに注がれた“だし”。一本釣りの鰹を3年寝かせた本枯節の薄削りを丁寧にひき、味付けは一切なし。「まずは胃を温めてほしい」という意図の通り、ピュアな素のだしに胃袋が深呼吸する。滋味が体に染み渡り気持ちまで緩んだところで、ゆるゆると蕎麦前の時間が始まるのが恒例だ。
このだしに続く料理はお浸し、煮浸し、だしジュレがけなど野菜尽くし。煮浸しには薄削りの一番だし、お浸しや浸し豆なら厚削りの二番だしと使い分け、野菜とだしのセッションが繰り広げられる。あっさりとしたシンプルな料理ばかりなのに、口に広がる味わいはハッとするほど鮮烈で力強い。まさに引き算のおいしさだ。
中盤に入ると、茶碗蒸しや肉を使った餡かけやお椀など温かい料理が繰り出される。これらもまた、際立つのはだしのふくよかな味わい。つい酒が進んでしまう。でも、なぜ、縁の下の力持ちであるだしにスポットをあてたのだろう。
「きっかけは本郷にある鵜飼商店さんとの出会いです。鵜飼さんで扱う三年ものの本枯節に感動して、料理のベースにするのとは違う使い方ができると感じました。削り方で味わいはまるで違って、厚削りは球体のようにまろやかなだしになり、薄削りは複雑な旨味が素材を引き立ててくれる。だしがあることでいろいろな組み立てができ、表現の幅も広がりました。うちの生命線といっていいぐらい」
山形県から週1回直送される「お日さま農園」の野菜も、今や欠くことができない食材だ。農薬や化学肥料を使わずに栽培する野菜の生き生きとした味わいと、生産者のひたむきな姿勢に惚れこんだのだという。それ以外の食材や調味料についても「好きになったら一筋」が日比谷さんの性分。それが店の味にもなっている。
野菜とだしで構成された酒肴のなかで、唯一、蕎麦屋らしさを伝えるのが粗挽きの蕎麦がきだ。とはいえ、これもまた独特。かろうじて固形になっているようなゆるさでつくられ、口に運べばとろ〜りもちもち。粗挽きならではの粒感もあって、一口ごとに穀物たる蕎麦の風味がほっこりと花開く。添えられた自家製のカラスミパウダーやXO醤をのせれば、盃が空くピッチが俄然早くなる。酒肴として楽しむために、このゆるさに仕立ているのだろう。アイデアに脱帽だ。
こうした蕎麦前をより楽しませてくれるのが、日比谷さんのセンスが光る器の数々である。食材と調味料と同じく、揃えているのは惚れ込んだ作家の品だけ。それだけに一つ一つへの愛着はひとしおだ。
「うちはシンプルな料理が多いので、器に盛り立ててもらっている感じですね。焼き物に詳しい人に『使い方がなってない』と言われることもありますが、愛情をもって使っているのだからそれでいいと開き直っています。マニュアルにこだわると、マニュアル通りの発想しかできない。うちは型にはめる必要がない店なので、器との向き合い方も感覚でやったほうがいいんだろうなと思っています。恥はかくかもしれないけれど、自信をもってやれば料理も器使いもいつしか自分のものになっていくと信じて」
日本酒のラインナップも同様で、蔵まで足を運び、つくり手の情熱を受け止めながら仕入れた思い入れのある酒ばかりだ。だから、「こんなお酒を呑みたい」といえば、蔵のストーリーとともにお薦めが出てくる。今宵の酒を日比谷さんに委ねてみれば、思いがけない出会いが生まれるかもしれない。
文:上島寿子 写真:岡本 寿