2022年8月号の特集テーマは「夏のつまみと酒」です。旅行作家の石田ゆうすけさんのお気に入りつまみは「冷やしトマト」なのだそう。夏のトマトというと忘れられない思い出があるようで――。
ビールに合う夏のつまみはなんといっても冷やしトマトだと思っているのだけど、人からはあんまり賛同されない。みんなわかっていないなあと思う。ほんと、ワインと料理のマリアージュを楽しむみたいに、冷やしトマトを口に入れてからビールを飲んで、両方のシュワシュワに意識を向けてみてください。すごい気持ちいいから。
夏のトマトといえば旧ユーゴの一国、マケドニア(現在の呼称は北マケドニア)が思い出される。
自転車で世界をまわったときのことだ。旧ユーゴの国々には民族紛争のイメージがあるため、マケドニアの治安にも少し不安があった。
それで、国境を接しているブルガリアに滞在中、いろんな人に聞いてまわったのだが、みんな笑顔でノープロブレムだという。それならマケドニアを経由してギリシャに入るのもいいな、と考えつつ、その一方で、ブルガリア人が隣国マケドニアに好意的な反応を見せることに意外な思いを抱いていた。世界各地で隣国の悪口を聞いてきたからだ(どこでも一緒ですね)。
あとあと聞いたところによると、マケドニア語はブルガリア語と酷似していて、互いに同士のような近しい感情があるらしい(だからこその軋轢もあるようだけど)。
ブルガリアからマケドニアの田舎に入ると急に明るく開け、おや?と思った。ヨーロッパのなかでは最貧国の一つのはずだけど、ブルガリアより家は立派だし道もいい。大荷物をつけた僕の自転車を見て、人々が陽気に手を振ってくる。農夫の一人はわざわざ車をとめ、トマトとシシトウのような青野菜をくれた。
その夜は一軒の農家に許可をもらい、畑でキャンプした。農家のおじさんはスイカとメロンを切って出してくれた。
翌日は1日走って夕方にはギリシャに抜ける予定だったが、国境の2kmほど手前で大きなプールが現れた。プールサイドにはパラソルやデッキチェアが並び、人々が寝そべったりドリンクを飲んだりしている。プールとバーが一体になったような店だった。
暑いからプールで泳ぐのもいいな、でも高そうだな、と逡巡していると、プールの関係者と思しき上品な感じのおばさんが出てきた。僕を見て、あら?という顔をする。入場料を聞くと、高級リゾート風の見た目とは裏腹、ずいぶん安い(金額は失念)。
おばさんは流ちょうな英語を話した。しばらくしゃべったあと、「今晩はこのプールに泊まったらどう?」と屈託なく言う。
「えっ?……大丈夫なの?」
「大丈夫よ。ここ、ウチが経営しているんだもの」
あ、それなら心配ないか。でも、夜になって若社長が現れ、「出ていけ」なんて言われたら目も当てられない。おばさんは超がつくお人好しといった感じの人だけど、世間ずれしていないお嬢さんのような頼りない雰囲気もあった。
僕は申し訳なく思いつつも、「ほんとに大丈夫?」と念を押した。おばさんはこちらの胸の内を感じ取ったのか、「何も問題ないわ」と断言するように言った。
冷たい水につかって泳ぎ、このうえなく爽やかな気持ちになって、デッキチェアに座り、ビールを飲みながら本を読んだ。ああ、これって最高じゃないか。しかも今晩の寝床の心配もないなんて。おばさんに心から感謝だ。汗だくで貧しい旅をしている日本の若者に、こういう思いをさせてあげたかったのかもしれない。
日没後、お客さんがぞろぞろ帰り始めた。営業終了らしい。僕はそのまま本を読み続けた。そこへ若い男がやってきた。プールを閉めるという。
僕はおばさんの話をした。
「えっ、泊まる?バカか。出ていけ」
取りつく島もなかった。どうやら彼がボスらしい。
「問題ない」と言ったおばさんの得意そうな顔を思い返し、心の中で恨み言をぶつけながら荷物を片付け始めた。もうすぐ暗くなる。これから寝床が見つかるだろうか。さっきまでが天国だっただけに絶望感もひとしおだった。
そこへおばさんがやってきた。相変わらず能天気な笑顔で「どうしたの?」と言う。僕の頭の中でぷつんと糸が切れた。
「だからあんなに大丈夫かって確認したじゃないか!」
そう言いたいのを、しかし、すんでのところでこらえ、ボスから退去を命じられたことだけ伝えた。おばさんに悪気はないし、そもそもプールに泊めてもらうこと自体、虫のよすぎる話なのだ。
おばさんは表情を硬くし「ちょっと待って」と言い残して事務所に戻っていった。僕はいつでも出発できるように準備したあと、おばさんの帰りを待った。
やってきたのはさっきの若いボスだった。
「いいよ。プールサイドに泊まっていきな。外の自転車も中に入れたらいい」
彼はそれだけ言って事務所に戻っていった。ピンク色の空には金星が灯っていた。
近くの店でビールを買って自転車をプールの敷地内に入れていると、おばさんがやってきた。ニコニコ笑っている。
おばさんは片づけられたデッキチェアを一つ出してきて、「これに寝たらいいよ」とプールサイドに置き、背もたれを倒した。さらに「パン食べる?」とあっけらかんとした表情で聞いてくる。なんだかへなへなとへたり込むような気分になった。さっき言葉を吞み込んで本当によかった……。
おばさんは閉店したバーに歩いていき、しばらくしてから大きな皿を持って戻ってきた。パンのほかに、ハム、きゅうり、トマト、オリーブの実がのっている。
「じゃあごゆっくり」
彼女はにっこり笑い、去っていった。
すっかり暗くなり、プールには誰もいなくなった。それでも水中のライトはついていて、星空の下、水が青く光っている。トマトを口に入れ、ビールを飲んだ。トマトの酸味と甘み、ホップの苦みと香り、麦芽の旨味、それらが細かい泡と一緒にシュワシュワと広がっていく。なんとなく泣きたいような気持ちになっていた。俺は、わがままだ――。
光る水面がゆらゆらと揺れていた。
ある夏の日のことだった。
文・写真:石田ゆうすけ