2022年2月号のテーマは「挽き肉が主役」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、中国に訪れた際にとあるツアーにゲストとして参加しました。「挽き肉」と聞いて思い出した、ちょっと変わった男性とのエピソードとは――。
食の雑誌dancyuの特集をテーマに、海外での体験を語るというこの連載、今月のお題は「挽き肉」だ。
挽き肉と聞いて思い出すシーンがある。
中国西部、伊寧市でのことだ。自転車世界一周旅行中にひょんなことから現地旅行会社主催の3泊4日自転車ツアーにゲストで参加することになった。ま、蓋を開ければ僕はツアーの引率者兼メカニックとして体よく利用されたようなものだったのだが、それはさておこう。
ツアーの対象者は地元伊寧市の大学生で、11人が参加していた。
その中にひとりモンゴル族の学生がいた。ボサボサの髪に、無精ひげ、俳優の夏八木勲似のオッサン顔、迷彩柄のくたびれたカーゴパンツ、と言ってはなんだが、かなり暑苦しい印象を人に与える男だった。実際、初顔合わせのとき、彼の求めに応じて握手をしたら、彼は握力測定でもしているかのように力いっぱい握り返してきて、「あ、見た目通りだ」と思った。名前をナスルンバットという。
僕をゲストだと考えているからか、彼は常に僕に構った。休憩のたびに「こっちこっち」と木陰に招いたり、食事をみんなで囲むときは料理を一つ一つ指差し、「どれが食べたい?」と聞いては取り皿によそってくれたり。親切な男には違いないのだが、なんというか、相手にお構いなく強引に押し付けてくる気配があり、おまけに持って生まれた“間の悪さ”のようなものもあって、どうも一人浮いているのだ。メンバーは全員がほとんど初対面だったが、空気の読めないナスルンバットにみんな次第に距離を置き、彼の言行に苦笑を浮かべるようになっていた。
ツアー2日目のことだ。
僕はペースの遅い女性二人をフォローするために最後尾を走っていた。砂漠に敷かれた一本道からは茶色い荒野が果てしなく広がっているのが見える。
集落に着くと、先に着いていたナスルンバットが「あいよ、待ってました」とばかり飛んでやってきて、僕の自転車を奪い取るように持っていこうとした。彼からすれば自分がいい場所に自転車をとめておくから君は早く休んで、というつもりだったのだろう。僕の自転車は山のように荷物を積んでいるから手を貸したくなるのもわかる。ただ、慣れない者がやると、異様に重いこの自転車は扱いきれず、転倒させることもあるし、なによりこのときの彼の所作はあまりに一方的で強硬だった。僕はかすかないらだちを覚え、「プーヨン、ウォーズオ(いいよ、自分でやるから)」と断った。しかしナスルンバットはまったく耳を貸さず、僕を押しのけるようにして力ずくで自転車を奪おうとするのだ。他者の気持ちをまるで考えようとしない態度に思わず激高してしまった。
「ウォーズオ!(自分でやる!)」
ナスルンバットはびっくりした顔で僕を見たあと、一拍おいて「ドイブチイ(ごめん)」と謝った。気まずい空気が流れた。
夕方、小さな村に着いてボロ宿に投宿し、部屋で荷物を整理していると、ナスルンバットに呼ばれた。ついていくと、案内されたのは土間の部屋だ。水の入った小さな盥(たらい)がある。
シャワーどころか水道もなく、溜め水で体を洗う、という宿は砂漠地帯では珍しくない。ナスルンバットは僕のために盥に水をくんで用意してくれたようだ。
彼の世話焼きに慣れきっていた僕は形式的に「シェシェ(ありがとう)」と言った。彼はにっこり笑って部屋から出ていった。
砂漠を1日走って汗と埃にまみれた顔を洗うと、それだけで盥の水は黒く濁った。次に裸になって盥の中に立ち、タオルに水を含ませながら体を洗う。水は体を伝って盥に還っていく。盥の水は汚れた靴を何足も洗ったあとのように真っ黒になっていた。
ナスルンバットの声がドアの向こうから聞こえた。僕の行水が終わるのを待っていたらしい。急いで服を着て外に出た。
そのあと洗濯ものを抱えて水場に行くと、あれ?と首を捻った。溜め水が入っているはずのドラム缶がほぼ空ではないか。ハッとして、さっきの部屋に走って戻った。
ドアを開けた瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。ナスルンバットが上半身裸になり、僕がさっきまで使っていた盥の真っ黒な水で顔を洗っていたのだ。
「おいっ!」
彼は振り返って僕を見ると、黒い水を顔から滴らせながらにっこり笑った。体の奥から何かが突き上げてきた。
「ダンイーシャ(ちょっと待ってて)!」
そう言い捨て、外に飛び出した。民家や食堂などを駆けまわり、なんとか盥1杯分の水をかき集め、彼のところに持っていった。彼はやはり笑顔で「シェシェ」と言った。その笑顔に再び心を奪われた。自分は彼のようにはなれない、と思った。自己犠牲をも厭わない優しさは、自分にはない。これまでの彼に対する己の態度を振り返り、心の底から恥じ入った。
その夜、みんなで晩飯を囲むと、ナスルンバットはテーブルに並んだ料理を指差しながら、どれが食べたい?と笑顔で聞いてきた。さっきの行水のことや昼間の衝突のことなど何もなかったかのように。
麻婆豆腐を指すと、彼はそれを取り皿に盛り、僕の前に置いた。挽き肉が他の人よりどっさり盛られ、ぬらぬらと光っていた。
文・写真:石田ゆうすけ