映画やドラマで強く印象を残す「あのメニュー」を深堀り。第九回目は、スパイアクションシリーズ『007』より。新作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』をもって、ダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンド全5作が完結。その1作目を、「酒」を軸に味わってみる。
60年も続く驚異的な007シリーズだが、いまや初代ショーン・コネリーに肩を並べる存在感を放つダニエル・クレイグ。『カジノ・ロワイヤル』は06年公開のクレイグ版ボンドの第一作。金髪と青い目の新たなボンドは、リアルで人間味にあふれる姿で観客を魅了した。
シリーズ通してボンドはよく酒を飲むが、とりわけこの作品においては登場する酒のひとつひとつが物語性を帯び、ボンドのキャラクターを浮かび上がらせている。
まずは敵を追ってバハマのクラブへ向かうボンド。カウンターで「注文は」と尋ねられ、「マウントゲイのソーダ割り」と即答する。
「マウントゲイ」とは、西インド諸島バルバドス島産のラムの銘柄。イギリス領のためウイスキー製法の影響を受け、フランス領のラムに比べパワフルな味わい。英国紳士らしくラムの銘柄まで知り尽くすボンドに、冒頭からしびれる。
次は、敵の妻を誘惑する場面にシャンパンが登場。ボンドはホテルのルームサービスにこんなオーダーをする。「冷えたボランジェのグランダネを。それとキャビア・ベルーガを薬味付きで」。
シャンパーニュのボランジェは最高級のフランスメゾンで、しかも英国王室御用達。そしてグランダネは、品質の良いブドウが収穫された年だけの超ヴィンテージだ。このゴージャスな銘柄をしっかり冷やし、キャビアの中でも希少品種の高級銘柄に薬味をつけろという指示は如才なく、実に心憎い。女性を魅了する術に長けたボンドの面目躍如である。
実はこの作品は、ボンドが“00(ダブルオー)”の称号を得たばかりの「ボンド誕生」のストーリー。ボンド愛飲カクテルとして有名な「ウォッカ・マティーニ」が誕生するプロセスが描かれていて、がぜん引き込まれる。 本作のボンドガールであるヴェスパー(エヴァ―・グリーン)を伴い、モンテネグロのカジノ・ロワイヤルでゲームが始まる。ボンドはウェイターを呼びつけ「ドライ・マティーニ」とオーダー。ところがそこでふいに思いついたように、ありきたりなマティーニとは異なるレシピを伝え始める。
「ゴードンジン3、ウォッカ1、キナ・リレを2分の1、よくシェイクしてレモンピールを添えてくれ」。
ドライ・マティーニは通常ジンベースで、スプーンでかき混ぜるステアが正統だ。それを敢えて強いウォッカを混ぜ、レモンピールで苦みを加え、しかもシェイクを所望するボンド。ワイルドで、いかにもこれから大勝負をかける男にうってつけなのだ。これを聴いたゲームの参加者たちが、我も我もと同じカクテルをオーダーし、ボンドの威光と影響力を感じさせるシーンでもある。
さて、ついに大勝負を制したボンドが、運命の女性ヴェスパーとともに勝利の美酒を飲むクライマックス。彼に幸運をもたらしたくだんのオリジナル・マティーニについてこう語る。
「そうだな……ヴェスパーと名付けよう」
「後味が苦いから?」
「いいや、一度味を知ると他のものは飲めない」
知的で気の強いヴェスパーをしても、瞬時に笑顔にしてしまうボンドの話術の巧みさ。あっぱれである。
映画のヒットによりこのカクテルは、実際に「ヴェスパー」と呼ばれ一躍バーで人気を博す。物語ではヴェスパーは衝撃的な結末を迎えるが、カクテルの名前として愛され続けるのは、本望だったのではないだろうか。
文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ