2021年4月号の特集テーマは「シンプルパスタ」です。世界中どこにいっても好みのパスタに出会えなかった石田さんですが、ついにパスタの生まれ故郷イタリアで最高の一品に出会えました!大食漢な一家に誘われて食べた忘れられないパスタとは――。
美味!とはいえないパスタの話ばかり書いてきたので、最後においしかったパスタ話もしようと思う。
自転車世界一周の旅で訪ねたイタリアはボローニャ近郊でのことだ。初夏、緑の鮮やかな田園風景の中を走っていると、見晴らしのいい丘に民家がぽつんと一軒立っていた。はるか下方には畑がパッチワークのように広がっていて、まるで展望台だ。ここでお願いしてみようか、と思った。
ヨーロッパではキャンプ場以外での野営は基本的に禁止されている。そのためたびたび牧場や大きな敷地を持つ民家に許可をもらい、敷地の隅にテントを張らせてもらっていた。
ドアをノックすると、初老のおじいさんが現れ、僕を見て眉をひそめた。小汚い東洋人がいきなり訪ねてきたらまあそうなる。
片言のイタリア語で自分の素性を話し、「一晩だけ」「寝るだけ」「火は使わない」等々伝え、キャンプをお願いしてみると、おじいさんは僕を値踏みするように見た。あ、すみません。頭を下げ、出ようとしたら、おじいさんは家の右手を指して何か言った。あそこでキャンプをしろ、ということらしい。
「グラッチェ(ありがとう)」
僕が大仰なくらい喜びを顔に出したせいか、おじいさんは初めて笑った。
テントを張り終える頃、おじいさんは僕を呼びにきた。なんと晩飯をご馳走してくれるというのだ。
煉瓦の暖炉があるその家には、白髪の初老の女性と、10歳ぐらいのブロンドの美しい少年がいた。お孫さんかと思ったが、ベラルーシ人の子供だという。彼ら老夫婦は、経済的な理由で生活に困った子を預かり、学校に行かせているらしい。
少年は青く透き通った目で僕を見ながら、サッカーが好きなんだと言って、イタリアの選手の名を何人もあげた。そのからりとした明るい表情には、故郷や親から遠く離れて暮らしている境遇を感じさせるものはなかった。いきなりやってきた珍客と少年が楽しそうに話している様子を、老夫婦は微笑を湛えて眺めている。
お母さんがスパゲティを持ってきて僕の前に置いた。彼らはすでに食事を終えていたらしい。3人に見つめられるなか、スパゲティをひと口食べると、首がぴょんと跳ね上がった。やっぱりイタリアだ!パスタは各地で食べてきたが、ほどよい固さのスパゲティに巡り合ったのは少なく見積もっても5年ぶり、日本を出て以来だ。ソースもすばらしい。シンプルなポモドーロだが、家庭料理とは思えないほど贅沢なコクがある。この地名産のチーズ、パルミジャーノ・レッジャーノを入れているようだ。
食い気と感情表現が人一倍強めの僕は、感動をなんとか伝えようと心を込めて言った。
「ブオーノ(うまい)! ブオーノ!」
お母さんは思わぬ幸運に遇ったように顔を輝かせ、朗らかに笑った。ああ、料理が好きなんだろうな。
ただ、悲しいかな大食いの僕には量が足りない。テントに帰ってからパンでもかじるか、と考えていると、巨大なミートローフとチキン、そしてパンが出てきた。やっぱりイタリアだ!パスタはプリモ(第一皿)で、肉や魚のセコンド(第二皿)もちゃんと用意されていたのだ。
そのセコンドを口にした瞬間、さっきのスパゲティでおぼろげに感じたことが確信に変わった。お母さんの料理好きは、いや、これはもう相当なものだ。ミートローフもチキンもハーブや調味料の使い方が細やかで、心を尽くして丁寧につくられていることがはっきりとわかる。火の入れ方も完璧だ。噛むと膨らむような旨味と肉汁があふれ出す。
最後に出てきたラズベリーパイのドルチェ(デザート)も手づくりで、控え目な甘さとパイ生地のほっこりした味に、心がほどけるような思いを抱いた。
それにしても、イタリア人の食いっぷりには恐れ入る。自転車で旅をするといつもの倍は軽く食べるのだが、それでも彼らが出してきた量を、僕は全部平らげることができなかったのだ。ラズペリーパイを3分の2ほど残して腹を押さえ、「もうダメ~」と唸ると、そのオーバーアクションがおかしかったのか、少年は声変わりのしていない澄んだ声でからから笑った。ふと、少年の明るさは、このお母さんの手料理によるところも大きいのかもしれないな、と思った。
ラズベリーパイの残りをお母さんはラップにきれいに包んでくれた。それを僕に渡しながら、子を抱く母親のようなまなざしで「ドマーニ(明日のぶんね)」と言って微笑んだのだった。
文:石田ゆうすけ 写真:伊藤徹也