世界の○○~記憶に残る異国の一皿~
極寒の地で食べた忘れられない「シチュー」|世界の煮込み料理③

極寒の地で食べた忘れられない「シチュー」|世界の煮込み料理③

2021年2月号の特集テーマは「煮込む。」です。煮込み料理の定番と言えば、日本人にもなじみ深い「シチュー」。旅行作家の石田さんがアメリカのユタ州で食べたシチューは、いまでも心に刻まれているといいます。とあるクリスマスの時期に出会った思い出の一杯とは――。

極寒のクリスマス

西洋の煮込み料理といえばシチュー。各地で食べたが、なかでも忘れられないひと皿の話をしようと思う。
場所はアメリカのユタ州、海抜2000m前後の高地だ。目の前は見渡す限り西部劇の世界、赤茶けた荒野が広がっている。高所にいるとはとても思えない景色だが、実際は高山並みの標高だから、気温は著しく低い。しかも12月。さらには記録的な大寒波に襲われていた。終日曇天だと日中でもマイナス13度だ。その中を自転車で走っている。

アメリカでもとりわけ人口密度が低い場所らしい。それでも1日こげば、町や集落のひとつやふたつは現れる。家も街もクリスマス一色で、どの家の窓からも部屋の中のクリスマスツリーが見えた。そのまわりでは子供たちが笑顔で遊んでいる。薄手のセーター1枚だ。かたや僕は宇宙飛行士のように着込み、外気にさらしているのは目鼻口だけ。僕と彼らのいる世界の、この途方もない差よ。家の壁一枚を隔てて天国と地獄だ。なんだかおかしくなってくる。紙やすりでこすられるように痛い寒風を顔に受け、鼻水を垂らし、クリスマスツリーと家族の団らんを横目にシャコシャコ走る。

ある夕暮れどき、荒野の中に小さな町が現れた。公園の前に自転車をとめる。テントを張れそうだ。同じ寒さに震えるにしても、無人の荒野でひとりぼっちより、街中の公園に寝るほうがいい。家々の明かりが気休めになる。

平らな場所を探して公園内を歩いていると、お爺さんがやってきた。大きな犬を2匹連れている。目が合ったので挨拶すると、お爺さんはニコリともせず、言った。
「何してるんだ?」
「ここでキャンプしようと思って」
会話はそれで終わった。僕は再び公園内をうろうろし、平らな場所が見つかると、小石を足で蹴って地面をならした。
お爺さんはそんな僕の様子をしばらく見つめたあと、やはり無愛想に言った。
「俺の家で寝ていけ」

レンガ造りの小さな家に入ると、柔らかい熱が凍てついた頬を包んだ。居間の暖炉で熾が燃えている。きれいに整頓された部屋だった。彼と犬2匹のほかに住人はいないようだ。
お爺さんは大きな冷凍庫を開けた。プラスチック容器がたくさん並んでいる。そのひとつひとつに、きれいな字で書かれたシールが几帳面に貼られてあった。カレー、ボルシチ、オニオンスープ……。
「好きなのを選べ」
僕は《stew》と書かれた容器を指した。お爺さんはそれを鍋に空けて火にかけ、木ベラでザクザクと砕きながら温めていく。その音だけが静寂に浮かんでいた。僕はそのうしろ姿を見つめていた。老人の料理する姿というのは、なぜこうも温かいのだろう。

お爺さんはひとり分のシチューを皿にとり、パンを添えて僕の前に出した。彼はすでに夕食を済ませていたらしい。
赤味の強いそのビーフシチューはレストランで食べるような本格的な味わいで、びっくりするくらい旨かった。「コックをしていたの?」と聞くと、「料理は趣味だ」とお爺さんは抑揚をつけずに答えた。

静かに食事をしながら、僕たちはぽつりぽつりと話をした。
息子が遠い都会にいる、とお爺さんは言った。
「息子さんたちはここを出ていったの?」
「いや、違う。俺がこの田舎村に移り住んできたんだ」
お爺さんは相変わらず無表情で答える。
「息子さんはここへは? よく来るの?」
彼は首を横に振った。
そのときようやく、この部屋にクリスマスツリーがないことに気づいた。

お爺さんはテレビをつけた。映画『アラビアのロレンス』をやっている。ピーター・オトゥールが従者を連れて砂漠の中を息も絶え絶えに歩いているところだ。
「いい映画だ。観たか?」
「いや」
お爺さんは場面ごとに丁寧な解説を入れてくれた。僕は相槌を打ちながら、思った。いつの日か息子がここを訪ねてきたとき、きっとお爺さんは冷凍庫を開けながら言うのだろう。好きなものを選べ、と。

翌朝、お爺さんは犬2匹とともに見送ってくれた。相変わらず仏頂面のままだが、僕が振り返るたびに手を上げてくれるのだった。

文:石田ゆうすけ 写真:宮濱祐美子

石田 ゆうすけ

石田 ゆうすけ (旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。