今回のお題“天ぷら”には、一体どんな真実が隠されているのでしょうか?私達が一度は食べたことのある、あんな料理やこんな料理には、隠された物語があることをご存知でしょうか?“知る”ことで、同じ料理が明日からちょっと美味しくなる連載をお届けします。
昔々天ぷらは屋台の食べ物であった。それも串カツスタイルで。その証拠の一つが、江戸時代後期に活躍した浮世絵師、歌川(安藤)広重の作品に描かれている。そこには海岸沿いを歩く大勢の月見客の列に並んで鰻屋、蕎麦屋、団子屋、鮨屋といったいろいろな屋台が立っていて「天麩羅」の文字も絵の中央に堂々と見える。その天ぷら屋台をよく見ると男が立ち食いしていて目の前には串入れが置いてある。
当時、江戸の町は今でいう都市計画に基づいた建設ラッシュに沸いていた。多くの出稼ぎ男性労働者が流入し、さらに参勤交代でついてきた武士などもいた。そのため男だらけの町となり、単身生活者のための外食産業が一気に花開くことになる。男一人、クタクタになるまで働いた後に夕飯をつくるのはなかなか酷だ。彼らにとって日々のご飯は気軽にテイクアウトしたいだろうし、ササッと食べてしまいたかったはずである。
「気軽にうめぇもんが食いてぇ」という男たちの願望を叶えるがごとく、そばには江戸湾があった。当時の海岸線は今よりもずっと内に寄っており、日比谷辺りというから、人々の暮らす町の近くに海があった。日本橋に魚河岸が開かれた頃なので、魚もある程度は手に入れやすくなっていただろう。実際、江戸では天ぷらというと魚に限った呼び名で、野菜揚げとは区別されていた。1746年の『黒白精味集(こくびゃくせいみしゅう)』という本の中には魚を使った天ぷらのレシピがあって、それによると「鯛をおろして切り身にし、塩を当てて洗ってから小麦粉を卵で練った衣でくるんで揚げる」とある。この油が何かはわからないが、油は灯りにも使う大切なものだから頻繁に交換はできなかっただろう。さらに卵で練った衣なので、今のようにカラッとしたものではなく、ボテッとした天ぷらだったに違いない。それを串に刺し、皿に並べて販売した。
ところで天ぷらの屋台が支持された理由はほかにもある。炭火焼きの鰻にも通じることだが、木造建築が基本の江戸では出火するとすぐに燃え広がるし、消すのも大変。ガスこんろもIHクッキングヒーターもあるはずがなく、火事が出やすい高温の油調理には屋台が適していたといえる。
鮨、鰻と並んで天ぷらも屋台の出身。四文銭ワンコインの庶民の味方のファストフードであったわけだが、今ではいずれも高級フードとなってしまった。ちょっと寂しい。
さて冒頭の広重の絵ではよくわからないが、当時の史料を総合すると、天ぷらの屋台ではだしと醤油でつくった天つゆが丼鉢に入れて用意され、大根おろしもたっぷり添えられていたようだ。串に刺した天ぷらは、この天つゆに突っ込んで食べたという。二度づけ禁止を願いたい。
ねちっこい取材をウリにする食ライター。天ぷらに添えられる大根おろしの食べ方が、いま一つよくわからない。
文:土田美登世 写真:加藤新作 料理:田中優子 参考文献/飯野亮一著『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ』(ちくま学芸文庫) *「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」
※この記事はdancyu2017年12月号に掲載したものです。