2020年9月号の第二特集は「ぶっかけ」です。旅行作家の石田ゆうすけさんが「ぶっかけ」と聞いて思いつくのは、前回の「世界のおつまみ」でも話に出た国、ミャンマーだと言います。実は麺大国でもあるミャンマーで出会ったぶっかけ麺料理とはーー。
日本の「ぶっかけ」に似た冷たい麺はアジア各地にあるが、記憶に鮮明に残っているのはミャンマーの麺だ。ま、最近食べたからというのもあるけれど。
前回も書いたが、僕が自転車世界巡りをしていたころ、この国は軍事政権下で、自転車では入れなかった。ところが2016年に政権が替わり、民主化へ移行。2018年からはビザも不要になった。待ってました!とばかり、去年自転車を持って訪問したのだ。
ミャンマーも麺天国といっていいかもしれない。バラエティに富んだ麺が数多くある。なかでもよく食べられているのはモヒンガーだ。戦隊ものみたいな名前だが、本気で売り出せば日本でブームになるんじゃないかと思うぐらい旨い。米の麺にゆで卵やかき揚げやパクチーをのせ、ナマズからとったスープをかける。スープにはナマズの骨や身も砕いて入れているそうで、とろっとしている。これと米の軟らか細麺との絡み具合がほうと感心するくらい絶妙なのだ。
このモヒンガーも少量のスープをかけて食べるから、「ぶっかけ」といっていい気もするが、スープが温かいから、今回のテーマからはちょっとずれるか。
冷たいぶっかけの話だ。名前はわからないのだが、走り始めて3日目に着いた町の露店でそれを見た。
形の違うゆで麺が3種類、お盆に積み上げられていた。値段はどれも800チャット、約60円だという。きしめんのような幅広の麺を指で差して注文した。
おばさんはお金を受け取った手で麺をつかんで器に盛り、ゆで卵やパクチーなどをのせ、数種類の液体をそれぞれの容器から手早くかけ、あっという間に完成。速い速い。
目の前に置かれたその麺を前に、しばし黙考した。まいったな。火を通さないんだ。どうなんだろう、ここの衛生状況は。見た目は結構やばいけど……。
旅先では現地の人と同じものを食べるようにしているが、それは体が慣れてからの話だ。日本を出てまだ3日目。大丈夫だろうか。
ええい、ままよ。食べてみると、あれ?意外に深い味わいだ。ピリッとした辛さのあとに広がるまろやかな余韻。ココナッツミルクかな。酢が入っているのか酸味もある。ほかに鶏の出汁や、魚醤?……よくわからないけれど、幾種類もの香りと味が混じり合って、ひんやりつるつるの麺に絡んでいる。さっぱりしているのにコクがある。こりゃあいい。
ただ、純粋な気持ちでは味を楽しめなかった。小心者の僕は、ハエがたかり放題の露店の冷たい麺を、心のどこかで恐れながら食べていたのだ。
翌朝、腹痛もなく目覚め、するりと佳品を排出してようやく「ははっ、勝った」と調子にのった。
2日後、泊まったホテルのそばには鉄道駅があった。行ってみると、どこか懐かしい感じのする古い駅だ。
出入り自由のホームに入ると、露店が並んでいた。ここにも麺を積み上げた店があった。少女が店番をしている。店の長椅子に座り、卵麺のような黄色い太麺を注文する。少女は手づかみで麺を器に盛り、目玉焼きやパクチーをのせ、複数の液体をびゃっびゃっとかけた。速い速い。
食べてみると、不安が一蹴されていたせいか、前回より味がくっきりと知覚できた。ああ、旨いよこれは。モチモチの麺は“ゆでおき”なのにコシがあって、“すっぱピリ辛コク甘”のスープによく絡んでいる(モヒンガーもだけど、ミャンマーの麺は旨さが複雑に絡み合っていて、ひと言で形容するのは難しい……)。
麺をすすりながら駅の構内を眺めた。ホームには木のベンチがいくつも並び、旅装束の人々が所在なげに座っている。ホームの薄暗い明かりのすぐ外は、インクで塗ったような闇だ。レールに沿って明かりが点々と並んでいる。線路の鉄のにおいがする。
その中で麺をズルズルすする。安堵感と郷愁を合わせたような、ほの温かい気持ちになっていた。“駅そば”は形や味や国が違っても、旅情がひときわ滲み出るものかもしれないな、としみじみ考えていた。
文・写真:石田ゆうすけ