新連載「スペシャリテとまかない」では、レストランを代表するメニューであるスペシャリテに隠された、シェフの思いや料理の誕生の秘密をご紹介します。第一回目は渋谷にあるイタリアンの名店「トラットリア シチリアーナ・ドンチッチョ」。この一皿には、石川勉シェフの修行時代の思い出と、イタリア人の故郷の味が詰まっていました。次回はまかないを覗き見しますよ。
鮮やかなトマトソースのパスタのところどころに、ごろっとのった大きなナス。口にすると柔らかく崩れて、いい感じにソースやパスタに馴染む。
「シチリアではね、どこに行ってもナスなんですよ、ナス笑。チュニジアナスといって、丸くて大きく、濃い赤紫色をしたナス。市場に行けばこれが山積み。レストランでは何をオーダーしてもこのナスが使われることが多いんです。パスタの具にも必ず入るし、僕が修行したパレルモのカポナータの具だってナスだけ。ここまでナス尽しかと、びっくりしましたね」。35年ほど前、初めてシチリアを訪れたときの驚きを語ってくれたのは、「トラットリア シチリアーナ・ドンチッチョ」の石川勉シェフだ。
パスタの上に削ってかけているのは、リコッタチーズを塩漬けにしたリコッタ・サラータというもので、「このチーズも、当時は絶対に日本では手に入らなかった。最近では、ほとんどどの食材も何でも手に入るようになってきましたね」
そんな、当時の驚きと思い出を忍ばせた一皿が、この「ノルマ風パスタ」。一見、どうということのないトマトと揚げナスという組み合わせだが、こういうものこそが郷愁を誘うのだろう。イタリア人客が訪れると、みな当たり前のようにこれをオーダーするという。メニューには載っていないにもかかわらず、だ。
「トラットリア シチリアーナ・ドンチッチョ」には、イワシとウイキョウのパスタをはじめ、いくつかの有名なパスタが存在する。しかし、シェフ自身が心の中でスペシャリテと思っているのは、実はメニューには載っていない(しかしいつでもオーダーできる)、この「ノルマ風パスタ」なのである。今回は、ジーティ タリアーティというマカロニに似たショートパスタを使っているが、「ナスを使ったトマトソース」ということが大切で、パスタに特に決まりはないという。
ノルマ風とは地名かと思いきや、オペラに由来するとのこと。シチリアが誇る作曲家、ヴィンツェンツォ・ベッリーニの代表作は「ノルマ」。彼に敬意を表し、シチリアの代表的食材「ナス」を使った料理は「ノルマ風」と呼ばれているとの説が有力だ。となれば、日本を代表する南イタリア料理店のスペシャリティが「ノルマ風パスタ」であることもまた納得。シチリアに敬意を表した一皿でもある。
かの地の、明るく陽気で開放的な空気をそのまま持ってきたような「トラットリア シチリアーナ・ドンチッチョ」。エントランスにはオリーブの木があり、その脇にはテラス席もある。高い天井の店内にはゆったりと席が配置され、奥には常連客がコーヒーを飲むようなL字型の小さなカウンター席が。全体的に広々として、気取らないのに日本離れした格好良さがある。きっと、何度も訪れている人も多いだろう。でももし、この「ノルマ風パスタ」をまだ食べていなければ、これを機に一度は。シェフの思い入れとともに、心までもシチリアに染まれるはずだ。
文:浅妻千映子 写真:青谷 慶