2019年の秋のこと。長野県諏訪市で「あゆみ食堂」がオープンした。店主は東京で活躍していた料理研究家の大塩あゆみさん。彼女にとって、諏訪は縁も所縁もない場所。果たして、想いはどこにあったのだろうか?
「長野に『あゆみ食堂』がオープンする」
ひと月の間に別々の知人から同じ話題を聞いた。どうにも気になった。
知らない店に行くときは、信用している友人からの評判をあてにすることがほとんどだ。間髪入れずに「あゆみ食堂」の噂を耳にして、行ってみたいリストの上位に長野の食堂が躍り出た。
店を勧めてくれた知人のひとりは、写真家の阪本勇さん。彼とふたりで「あゆみ食堂」がオープンする日に長野県諏訪市を訪ねてみることにした。
店主の大塩あゆみさんは、東京を拠点に活動していた三十代の料理研究家。
ハンバーグや唐揚げといった馴染み深いおかずから、異国の調味料を使った肴まで、ボリューム満点で気取らず軽やかな料理をつくり出し、多くの人の胃袋を鷲掴みにしていた。
プライベートでも、友人やそのまた友人を自宅に招いて料理を振る舞うことがしばしばだったそうで、訪れた人はあゆみさんがつくる料理に大いに満たされていたという。
阪本さんも、その内のひとり。
「あゆみちゃんの料理が久しぶりに食べられる」と、なんとも嬉しそう。
てっきり「あゆみ食堂」がオープンする長野県諏訪市は、あゆみさんの生まれ故郷だと思い込んでいたら、彼女の出身地は静岡県の河津らしい。
東京で活躍していた若手の料理研究家が、諏訪市への移住を選んだ理由はどこにあるのだろう?
朝8時に東京を出発した僕らの車は、11時前に諏訪市に到着した。
東京に比べると、諏訪の空は圧倒的に広い。四方を囲む山々の頂上から巨大な雲が顔を覗かせていて、青々とした空が視界に収まらないほど広がっている。窓から入ってくる空気は、山と川の香りがした。
10分ほど市街地を走り「着いたよ」と言われる。
え?ここ?
目の前にあるのは、ずいぶんと古い3階建ての一軒家。
素直に心内を晒すと、木目の壁に大きなガラス窓がはめ込まれたような、“写真映え”を意識した外観を想像していた。
入口のドアや窓の冊子には真新しい木が使われていて初々しさがあるが、かなり控えめな佇まい。窓ガラスには「あゆみ食堂 10月21日(月) OPEN」と貼り紙があるので、間違いはなさそうだ。
意外な店構えを前にして、あゆみさんへの興味がどんどん募る。
いったい、どういう人なんだ。
真鍮のドアノブを回して扉を開けると、外観の控えめなイメージが一転した。
天井が高く、奥行きのある明るい内装が広がっている。入口脇の壁は朱色に染められていて、とってもキュート。
日本的な木造建築の温かみを残しながら、あゆみさんの想いがこもっているだろう工夫を所々に感じる。
綺麗に磨き込まれた木のカウンターを挟んで、女性3人がまめまめしく動き回っていた。
「あ~!来てくれたんだ!」
ありがとう~!と言いながら、あゆみさんが満面の笑みで迎えてくれる。
ちょうどオープン準備の仕上げをしていたそうだ。
古民家をリノベーションした物件だという。
「もともとあった壁や天井は取り除いてもらって、自分たちで壁の左官なんかもしたりしたんです。都内の友人や近くに住む方が代わる代わる手伝いに来てくれて、みんなでつくった内装なんですよ」と、あゆみさんが教えてくれた。
店内ではあゆみさん以外にも、静岡の下田に住むあゆみさんのお母さんと、東京で料理の仕事をしている井上翠さんがオープン準備を手伝っていた。テーブル周りを整えたり、ぐつぐつと煮えている鍋の様子をみたりと忙しそうだ。
オープンは12時ちょうど。「あゆみ食堂」初めての営業を迎える準備が着々と進められていた。
――つづく。
文:河野大治朗 写真:阪本勇