昔アルバイトをしていた飲食店では、ピッチャーに備長炭を沈めて、水道水を注いだものを、お冷やとして出していた。炭には浄水効果があり、ミネラルも溶け出すらしい。だが、手品じゃあるまいし、いくらなんでも注いだばかりの水が、一瞬にして美味しい水になっているわけがない。しかしピッチャーの中に炭が見えれば、喉を鳴らして飲む。炭を信じているのだ。
私の通うホットヨガスタジオには、水素水のサーバがあって、月額を払えば利用できる。レッスンの前に、銀色の専用袋にたっぷり1リットル注いで、スタジオに持ち込むのだ。それをなるべく1時間で飲みきる。受付で買える発汗バームや、パウチ入りのゼリードリンクなども、熱心に通う生徒ほど利用している傾向が高い。そして、スタジオ内での挨拶は「ナマステ」だ。暖房の効き過ぎた部屋で体を動かし、ジャアジャア汗をかいては、お揃いの銀袋からチューチューと頻繁に水素水を啜って、サンスクリット語を操る謎の集団。我々はヨガを、正しく言えばヨガスタジオの先生を信じているのだ。引き締まった体とすっぴんの輝く肌が、強く信じさせてくれる。
だがこの日本において、ホットヨガ人口は、まだまだ少数派だ。【魔界都市ドゥンディラス】にルーツを持つ人間ほどではないだろうが…。
『生命式』に収録された短編「素晴らしい食卓」では、主人公の妹が魔界都市ドゥンディラスの存在を信じており、姉とは全く別の食生活を送っていた。
魔界都市ドゥンディラスを信じない人から見れば、彼女の食生活は奇異に思える。《たんぽぽの茎を縛って三つ編みにして、みかんジュースで煮込んだもの》が故郷の味だって!?すんなり受け入れろというほうが無理である。
しかし彼女にとっては、食卓に虫の甘露煮が並ぶことのほうがエキセントリックに感じる。婚約相手の家族は、虫を美味しい食べものだと信じているのだ。
体の中に入れるとは、信じることである。疑い始めたらキリがなく、何も口にできなくなってしまう。様々な情報が飛び交う「水素水」の効能についても、今のところ深く考えるつもりはない。少なくとも我が家の水道から出る水よりは美味しいし、ヨガの先生も目の前で飲んでいるのだから、体に悪くはないのだろう。銀の袋に安売りのミネラルウォーターを詰めて行くようでは、信じ方が足りない。「ナマステー」と合唱して、インドカレー屋かよー!と照れているようでは全然だめだ。
文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子