見てわかる、聞いてわかる、触ってわかる、匂いでわかる……物事を理解する場面はさまざまだけれど、ひとつのわかるを別のわかるに変換するのは、思ったよりも難儀なこと。たとえば、見てわかったことを聞いてわかったことにするのは、骨が折れます。
西荻窪のふたつ前。阿佐ヶ谷駅の北、中杉通り沿いのギャラリーを外から覗くと夏目くんと目があって手を振って会釈をした。
そこには10人ほどの人がいて、明るいムードではあるのだが、ちょっと神妙な不思議な雰囲気を感じる。あれ、しまおまほさんがいるじゃないか。そしてボクがギャラリーの扉を開けると「あっ、いま、写真家の大森克己さんがお見えになりました~」と彼女がスマホに語りかけている。わけがわからずキョトンとしていると、どうやら宇多丸さんの『アフター6ジャンクション』というTBSラジオの中継に遭遇してしまったらしい。
しまおさんはギャラリーにいる男女の数や展示されている作品の数なんかをスタジオにいる宇多丸さんに説明していて、手には定規を持っていて「えーと、縦40cm、幅30cmくらい(実際にはもっと正確なサイズを言っていた。定規で測ってますからね)の絵が私の目の前にありますね~。ふんどしをした男が手を開いて四股をふむようなポーズをとっている線描画で、額に入っているのですが、上の5分の1くらい全体に水色の霧のようなものが額の上からかかっています」なんて説明している。面白いなあ。ラジオで絵の説明である。
たとえばモナリザを見たことがない人にどうやってモナリザを説明すれば良いのか?ジャクソン・ポロックならどう言えば良い?北斎の版画なら何ていう?
考えてみれば写真だって現物なしに言葉で説明するのは難しいですよね。
前々回のこのシリーズのトップの写真を「大きな古い亀の剥製がガラスケースに左向きに入っていて、その左前にやはり小さな亀の剥製と亀を模した石の彫刻の置物がある。大きな亀の右前には鑑賞石。右後ろ、つまり画面の右側には三浦屋小紫という遊女の浮世絵が飾られている。ガラスケースにはわりと最近の車であるらしき白い自動車とこの写真を撮影した人間の胸から腰あたりが映り込んでいる。亀も浮世絵も日焼けして青く煤けている」という感じでちょっとやってみたけれど、実際に写真を見て受ける印象と、この説明だけを聞いて受ける印象は随分違いますよね、きっと。
でも簡単には言葉にならない、視ること、聴くこと、触ること、食べること、いろんなことを人は言葉にしたいのですね。それは欲というのとはちょっと違うのかな。
アンディ・ウォーホルの顔や浅川マキの音楽が、どうやったら言葉に置き換えられるのか不思議である。両替みたいなもののような、まったく違うような。そして、しまおさんの周りでは小学校に上がる前ぐらいの年頃の男の子が、うぉーっ、と叫びながら走り回っている。定規を刀のように振り回して、作品スレスレのところの空気を切り裂いているのであるが誰も怒らない。そこは幸せな空間だった。
しまおさんとボクはたぶん15年振りくらいに会ったのだが、ひと月振りだよね、ぐらいの感じで「またね」と云い合って別れた。
――弥生につづく。
文・写真:大森克己