各駅停車のいいところを存分に楽しみながら、旅は西へ西へと進んでいく。沼津→島田→浜松と、静岡を横断した後の次なる寄り道は岐阜。金津園が呼んでいた。いや、呼ばれてなくても行ってみよう。そこは、ストレンジャー・ザン・パラダイス。
「3人合わせて140歳、青春真っ盛り、18きっぷのオッサンズです!」というキャッチフレーズの僕らは19時21分、岐阜で降りることにした。乗換駅じゃないのに降りるのだ。なぜか。青春ならではの理由があった。岐阜駅至近に金津園がある、と編集担当の痛風エベが言ったからだ。おお、金津園。男性は知っていて、女性は知らないこの名前。出会った男女が恋に落ち、愛を交わす公衆浴場の町。
昔から話にはよくあがっていたが、どこにあるのか知らなかった。岐阜駅のそばにあったんだ。降りましょう。浴場に興味はないが、元遊郭の風情を感じたい。飲食店ものぞいてみたい。出会いを待つ女たち、男たちが、その町で何を食べているのかいないのか。
エベは靴紐を4つ目の穴に通した。やる気まんまんだ。痛風の腫れもだいぶ治まってきたらしい。
駅の外に出て、地図看板を凝視する。金津園という文字はない。東京の元吉原遊郭にも吉原という名は残っていない。
横断歩道の信号が点滅しだしたので僕はかけだした。ゴールの堺までまだまだ遠いのだ。50分後の電車には乗りたい。金津園を散策し、飲食店を探して入り、何か食べようと思ったら圧倒的に時間が足りない。
オッサンズ全員同じ気持ちだろうと思って振り返ったら、誰も来ていなかった。ふたりともまだ横断歩道の向こう側にいる。僕を見て笑っていた。
再び信号が青になってやってきたカメラマンのガリガリ君が、丸い目をギラギラ光らせながら言った。
「石田さん、めっちゃ焦ってますやん」
違う、特殊浴場に気が急いているんじゃない!
しばらく暗い通りが続いた。とてもそんな町があるようには見えない。と思っていたら、やがてけばけばしいネオンが見えてきた。
辿り着けたことには安堵したが、求めているのはこういう現代的な店じゃない(だいぶ古そうだけど)。木造の妓楼はよもやあるまいが、戦後のカフェー建築ぐらいは……とウダウダ言う間もなく、2秒後には現れた。
さっきの浴場と地続きで名前も同じだ。カフェーが転業して旅館になったのだろう。やっぱり残っていたんだ。
町全体は思いのほか閑散としていた。ネオンがまばらに灯っているだけで、闇が多い。それもそのはず、更地が目立つ。廃業した店も多いのだろう。人もほとんど歩いていない、冬の平日。
風情を求め、古色漂うほうへとずんずん歩いていくと、うわ、出た。ほんとにあった。思い描いていたとおりの飲食店だ。テンションがトップギヤに入った。
けれんみたっぷりの庇屋根に、タイル張り、二階の手すり、とそれらしい建築だけど、元カフェーには見えなかった。看板を見る限り、いまは居酒屋らしい。
100点満点の外観だが、入るのはためらわれた。なんとなく怖い。場所も場所だ。特殊浴場の町のど真ん中、いかにも遊郭を連想させる時代がかった建築。中なかにいるのは脛に傷を持つ人。主も客も怖い人。巨人の高木をビビらしたのも怖い人。
「……もう少し歩いてみましょうか」
「そうですね」
しかし浴場以外はどこも暗かった。飲食店がそもそも他にないのだ。
結局さっきの店に戻った。よし、覚悟を決めよう。おそるおそる引き戸を開ける。
店主らしき小柄なおじさんがひとり。驚いたような顔をしている。何しに来たの?と言わんばかりだ。
「……いらっしゃい」
「……3人ですけど、まだ大丈夫ですか?」
「ウチお酒ないよ」
「えっ、看板に清酒『澤之鶴』って」
「いまはないんだよね」
おめえらに出す酒はねえ、か。まわれ右をしよう。一瞬そう思ったのだが、いや待て。そこまで冷たい感じはしないぞ。
「……食事はいけますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
おじさんは嫌な顔ひとつせず、「お好きなところへどうぞ」と言った。酒がない、は追い出す方便じゃなかったのかな?
中はやはり普通の食堂だった。元カフェーではなさそうだ。もしかして銘酒屋?いやまさか(銘酒屋は幕末から明治・大正期に飲み屋を装いながら売春が行われていた店。昭和、特に戦後からはカフェーが同様の役割を担い、隆盛を極めた)。
「お兄さんたちはどこから?ええ、東京かい。でもあんたとあんたは関西弁だね。ああ、やっぱり。すぐわかるよ。全国から人が来るから」
あれ、愛想がいいな。というより、めちゃくちゃよく喋るやないか。まるで噺家だ。店主はにやにや笑いながらこんなことを言う。
「よく来たねえ。だって入りづらいでしょ。怪しげな店でしょう」
「いえいえ」と僕は答えながら、心の中では「はい!」と思いっきり首を縦に振っていた。
「わざわざ見える人は少ないですよ。お店の女の子やボーイさんへの出前がほとんどで」
なるほど、そういう店か。そういえば、周辺にはほかに食堂が見当たらなかった。
店内には木製の岡持ちがあった。
「もうつくれる人がいないからね。親方が元気なうちに3つつくってもらいましたよ」
「お店はどのくらいやってるんですか?」
「70年ですね。親の代からです」
「えっ、じゃあおじさんはここで?」
「ええ、ここで生まれ育ちました。子どもの頃はね、正月に店をまわって女の子たちからお年玉をたくさんもらいましたよ。月収3,000円の時代に1万円ぐらいもらったかな。『光廼家(みつのや)』さんの息子だってみんな知ってましたから」
この特殊な町で働く人たちの胃袋を70年も支えてきた店。静かな興奮がさざ波のように押し寄せてくる。
また、引き当てた。
――つづく。
文:石田ゆうすけ 写真:阪本勇