今日は明日になれば昨日になる。明日はそのうち今日になる。昨日は今日だったこともあれば、明日だったときもある。当たり前だけれど、昨日と今日と明日は繋がっていて、つまりそれは永遠の一端をいまが担っているということなのかな。それとも、永遠なんて戯言で、生きている間がいまってことなのかな。
交差点の横断歩道をピンク色の帽子を被った保育園児達が保母さんに守られて渡っている快晴の午前10時半。
何気なく風景を見ていて突然にすべてのこと、この世界の仕組みの全部、時間と空間のありようが一瞬にしてわかる。いまは過去と未来と連続していて、未来から見た現在と、過去から見た現在が何層にも重なっている。ここにあるものはどこからかやって来て、いまここにないものもどこかで生まれている。目の前の保育園児の足音を、ボクはかつて確かに聴いて、そしてそれは未来から聴こえてくる音でもある。
交差点を渡りきってボクの視界の後方に去って行く子ども達。次に彼らに出会うとき、ボクも彼らも別の人になっているだろう。
北に向かって5分ほど歩き続け、駅のロータリーの信号の手前を左折して、ショッピングモールの中のATMで現金を引き出し、コーヒーを買って、改札口を抜け、東京行きの電車に乗り込む頃には、すっかりボクは別人になっていて、ほとんどすべてのことを忘れてしまって、また新しい景色に出会う。
ボクはいまここで何かを見ている。ここは京都ではなく、佐渡ではなく、パリでもなく、いまここである。
ポケットからスマートフォンを取り出し、動き続ける車窓から写真を撮る。海の手前に鉄橋が流れ、逆光の奥に船が浮かぶ。この海はアドリア海と繋がっている。しかし別の名前で存在し、カリブ海と繋がっている。
さまざまな光の加法混合。どんどん透明に、軽くなっていくいまここ。同時に記憶の減法混合によって漆黒の闇に近づいて行く魂。せめぎ合うふたつの力。RGBとCMYK。静止と流転。逆転と転回。圧縮と解凍。
車両の逆方向の北向きの窓からは東京スカイツリーの展望台が見え、望遠鏡でこちらを覗いているあなたと眼が合って、あなたがいま、まばたきしているのがわかる。ハローハローハロー。
――明日につづく。
文・写真:大森克己