日本酒は、どんな土地で、どんな人が、どんな暮らしの中で、どんなことを考えて醸しているのでしょう。蔵の数だけ、物語があります。物語を知ると、お酒がもっとおいしくなるかもしれません。
最寄り駅がない。一番近くの高速バスの停留所からも車で20分。それゆえに守られたともいえる自然豊かな山里に位置するのが「玉櫻」醸造元の玉櫻酒造だ。蔵の真ん前の道に沿うように流れるのが出羽川。その川向こうには、豊かな米穀地帯が広がっている。そこで栽培された地元米各種を使って、まさに「地の酒」と呼びたくなるおおらかでたくましい印象の純米酒を醸しているのが蔵元杜氏の櫻尾尚平さん(38歳)・圭司さん(32歳)の兄弟だ。
酒は人なり、の言葉通りに、醸す二人もまたおおらか、というか、実際に大きく、たくましい。揃って身長183cmにすくすくと育った兄弟は、周辺の山里の幸、川の幸を食しながら、「飲んだら食べたくなる」ようなコクのある食中酒、それも燗にしたら旨味が増す純米酒造りに力を注いでいる。
二人の酒造りを支える蔵人さんたちもまた豊かな自然の中で暮らす地元の人たち。その蔵人さんたちが寒い蔵から戻ると、母の玲子さんがお茶とお菓子を薦めながら、明るい笑い声を立てている。造りの最盛期、なのに、太陽のようなお母さんが温かな雰囲気を醸し出していて、和やかだ。
今季の仕込みはタンク16本分。製造量は多いとはいえない規模だが、東京、大阪の都市部でも玉櫻が支持されている理由の一つは「食事を美味しくする」酒であるからだろう。実際、玉櫻を好む店も人も、食道楽が多い。近年、特に人気が高まっているのは、米の旨味を出しながらもキレがよく燗上がりする生酛純米酒だ。
「この状態を“かがみづら”と呼ぶんです」
尚平さんが見せてくれた酵母無添加生酛の酒母は、“鏡”と呼ばれた通りに、表面は穏やか、酵母が活動している気配はない。
尚平さんは「まだ20日目ですから、気は楽です」と落ち着いている。まだ、とはいっても通常の速醸酛であれば、約半月で完成するところ、生酛の酒母の完成までには約40日かかる見込みだというから、速醸と比べて、約3倍の日数がかかる。
しかも、かかるのは日数だけではなくて、労力も。このタンクの中には、酛摺りという重労働を繰り返して生成された乳酸も含まれているのだ。蔵内に棲む、微生物の働きを待って醸される生酛は、江戸時代同様にリスキーな酒造りでもあるはずなのだが、その醸造法をみずから選んだ尚平さんは、「教科書通りではないところが面白い」と楽しそうだ。圭司さんもまた、酒母を見つめて「しゃべってくれるといいんですけどねえ」と笑っている。明るい。悲壮感ゼロ。
この労力も時間もかかる生酛の酒を尚平さんが初めて手がけたのは、蔵に入って5年目だった平成20年の秋。自身も大の酒好きで、生酛の燗酒を飲んだときのほっとする感じ、体に優しい自然な酔い方を「面白いなあ」と感じ、自分でも挑戦してみることに。同時期、蔵入りした圭司さんもまた、尚平さん以上にナチュラルな酒を嗜好し、兄の酒造りを支える同志となった。兄弟ともに、「速醸には速醸の酒の軽やかな魅力もある」と認める柔軟な姿勢を保ちつつ、全醸造量の4割が生酛造りの純米酒というのが現在の蔵の状況だ。
酵母を添加する場合、使用するのは7号の泡なし酵母のみ。あとは、酒米の個性の違いと精米歩合の違いが、それぞれの酒の個性となって表れる。巷では、あらゆる新酵母を駆使した酒がトレンドとなっている現在、使用酵母が1種類のみというのは、なんともシンプルな選択だ。
「僕がいろいろな酵母で造らなくても、世の中にはいろいろなお酒があるし(笑)。それに僕自身が突拍子もないものが苦手なんです。たとえば、飛び抜けて酸が強いとか、そういう変化球的なものをたまには投げてみてもいいんじゃないかと思うけど、結局は自分が飲まなくなる。だったら、今ある普通のものの質を高めていきたい」
生酛の酒は、熟成もゆったり。出荷するまでの時間が通常の2倍から3倍かかるのだ。できたお酒は売って初めてお金に換わるというのに、蔵に置いたままでは、タンクの中でお金が眠るのと同じではないか!
「そうなんですけど。でも、5年くらい前までは、生酛は造る量も少なくてねかせる余裕もなくて、若くて渋い状態で出荷するしかなかった。そうすると『このお酒、あと、2年くらいしたらいいお酒になる』と言われながら在庫はなくなっていったんです。先が楽しみだった酒、という評価のまま売り切れる。そんなことを繰り返していたら駄目だと思って、造ったからにはちゃんと熟成させて、味のピークの時に出せる蔵になりたいと思ってやってきたんです」
そうして踏ん張ってねかせた生酛は、一部のファンからは愛をこめて「番茶」とも「だし」とも呼ばれるほど、色もついて旨味ののったまろやかな酒に仕上がっている。
強くなければ優しくなれない。そんなハードボイルドの定義にも似て、時の流れに耐える強さを持つ生酛は、熟成を経て優しい飲み心地に変化していくのだ。そして、それは、芯が強いからこそ、温かさも和やかさも保たれているこの蔵の在り方、造り手の優しさにもよく似ている、と思う。
文:藤田千恵子 写真:佐伯慎亮
※この記事の内容はdancyu2019年3月号に掲載したものです。