2018年に輸入解禁となったアルゼンチンの牛肉。市場に出回るまでに時間がかかったが、ついに取り扱い始めた店が!昔、アルゼンチンの地で牛肉の味に魅了された旅行作家の石田ゆうすけさんが、渋谷へと向かいます。日本で食べるアルゼンチン牛の味はいかに......。
肉が世界一旨い!と旅人から絶大な支持を受けているアルゼンチン。この国の牛肉は、赤身がちなのに軟らかくてジューシーで、成長ホルモン剤不使用の安全な肉だ。
「ホルモン剤はこえーから」とアメリカ産牛肉を80年代から禁輸しているEUの厳しい基準もクリアして、この30年間EU諸国に輸出され続けている。一方、日本は「口蹄疫がこえーから」とアルゼンチン産牛肉を受け入れてこなかった。
ところが、口蹄疫が出ていないパタゴニア地方の肉は「全然問題ないがな」ということになり、2018年からとうとう日本も輸入を始めたのだ。
世界一周中にアルゼンチン牛の虜になった僕には、それだけでもヒャッホウ!と腕を突き上げたくなる事態なのだが、その牛肉をアルゼンチンの国民的料理、「アサード」で出してくれる店が渋谷の神泉にあるというのだ。ワッショイワッショイ!
喋らなければイケメンの若手熱血編集者、大治朗くんが鼻息を荒げながら詰め寄ってきた。
「石田さん!これは自分たちの舌で本物のアサードかどうか確かめてみるしかないでしょ!いましかないでしょ!」
僕がアルゼンチン牛は旨い!とさんざん焚き付けたから、いつにもまして熱苦しい。
でも確かにそのとおり。いくらアルゼンチン牛といえど、日本に入ってきたものがうまいかどうかは、実際に食べてみなくちゃわからない。
ようし、まずは一般客として、ふたりでその店に行ってみよう。神泉の「コスタ・ラティーナ」へ!
何品か食べて、僕たちは頷き合った。決まりだな。
どの料理もよかったが、やはり看板商品のアサードが群を抜いていた。
みずみずしく光る肉塊は、軟らかくてジューシーで、淡泊なのに味が濃くて、ああ、これだ、アルゼンチン牛だ、これを毎日のように食べていたんだよ、と懐かしく思った。
初めて食べる大治朗くんも、目にスケベな光を浮かべ、ニヤニヤ笑っている。ほんと旨いから!と連呼していた僕の面目もどうやら保たれたようだ。
ただ、これはアサードじゃないな、と思った。
アサードは大きな肉の塊を炭や薪で焼く豪快なアルゼンチン式バーベキューのことで、味付けは岩塩のみ、もしくは岩塩と胡椒のみ、ときわめてシンプルだ。
アルゼンチン大使館の人たち曰く、最近はローズマリーなどハーブを炭に入れたり、数種類の木を燃やしたりして、肉に香りをつけるといった凝った流れもあるそうだが、味付けはやはり岩塩だけらしい。
毎週末アサードをやるという人が珍しくない国だ(誇張だと思われないように遠慮して「珍しくない」などと書いたが、実際は国民の“大半”が毎週末やっているように見えた)。そんな肉のスペシャリストたちが、いろいろ試した結果、岩塩を振ってグリル、という形に落ち着いたわけだ。
ところが、「コスタ・ラティーナ」のアサードは、肉がソースのようなものに浸かっていた。
肉汁をたっぷり含んだ、甘い香りを放つソースだった。おそらく、彼らアルゼンチン人から見れば、肉のアマチュアであろう日本人の舌に合わせ、わかりやすい味にアレンジしたのだろう。本場とは多少形は違えど、これはこれで旨いのだから、たいした問題じゃないと思えた。
食事を終え、会計をした後、大治朗くんが取材の申し込みをした。アルゼンチン人らしき店主は、特に拒むこともなく、澄ました顔で承諾してくれた。
後日、夜の営業前に取材に行った。
店主の前浜ディエゴさんは祖父が日本人で、1991年に日本に来たらしい。職を転々としたが、食べることと人と話すことが好きで、飲食業界に入り、2000年に「コスタ・ラティーナ」を大井町にオープンした。
直訳すれば「中南米海岸」という名が示すとおり、当初はアルゼンチン料理ではなく、中南米全般の料理を出していたが、どちらかといえば飲むほうを主体としたバーだった。
ところが、2004年、土地の再開発の憂き目に遭い、ここ神泉に移転することになった。
店を再オープンする前に調査してみると、この町に来る客層はどうやら“食事を楽しむ大人”のようだ。
じゃあ本格的な料理を出そう。やるなら自国の料理で行こう。そう考えたものの、日本人に馴染みの薄いアルゼンチン料理で勝負するのは勇気が要った。決断に至れたのには、理由があった。
「新しい店は、構造的に炭を使ってアサードができそうだ、とわかったんです」
やっぱり、アサードなのだ。
先日会ったアルゼンチン大使の話が思い出された。
大使の家は首都ブエノス・アイレスにあり、マンションなのでアサードはできないのだが、郊外に一軒家を持っていて、毎週末のようにそこへ行ってアサードをやっていたらしい。思わず笑ってしまった。そりゃもうアサードのための別荘じゃないですか。そう言うと大使も笑っていた。
ディエゴさんも店で出す前は、プライベートでしょっちゅうアサードをやっていたらしい。
「日本では塊の肉がなかなかないから、仕方なく焼き肉用の肉でやってました。アルゼンチン人はとにかく煙を浴びたいんです(笑)。やる場所もないから駐車場でやっていました。大家さんも呆れていましたね」
今回ようやく念願が叶って、アルゼンチン産牛肉のアサードも出せることになったが、牛肉はまだまだ値段が高いらしい。ただ、味はほかの輸入牛肉と比べるとやはり違うそうだ。
「牧場が品質を上げる努力をしているんです。肉にうるさいアルゼンチン人にはごまかしが効きませんから。日本でまずい魚を売ったら信用が落ちるでしょ」
わかるなぁ。アルゼンチンでは「今日の肉はイマイチだな」と思うようなことは一度もなかったし、前回ここで試食したアルゼンチン牛のアサードも抜群だった。
そういえば、と思い出した。
「ここはアサードにソースをかけるんですね」
「ソース?かけませんよ」
「えっ?」
「アルゼンチンのアサードと同じです。味付けは岩塩と胡椒だけです」
「ええっ!?」
僕がソースだと勘違いしたのは、どうやら、肉塊がカットされた際にあふれた肉汁だったらしい。あの芳香は肉からだったの?
「バーベキューって簡単な料理だと勘違いされるけど、そうじゃない。炭選びから大変なんです。肉に合わせて選ぶんですが、これといった炭がなかなかない。備長炭は高級だからいいと思っている人が多いけど、アサードには向きません。肉の旨味が出ないんです。30種類ぐらい試して、やっと理想的な炭に出会えました」
“バーベキュー大国”の叡智を受けた男の表情には、自信と威厳がみなぎっていた。
――つづく。
文:石田ゆうすけ 写真:中田浩資/石田ゆうすけ