山の音
匂いの記憶。
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匂いの記憶。

匂いが呼び起こすもの。人、町、味、風景、恋、家族、夜、朝、季節――。あの頃やあの場所の気分を匂いが運んでくる瞬間に、幸福と感傷が入り混じる。臭い、と書くと、またちょっと違ったニュアンス。臭いで呼び起こされるものは、匂いと違って、顔をしかめるような要素を多分に含んでいる。匂いと臭いは同じ「におい」でも別物なんだなぁ。

茶色い葉っぱのチェリーや峰を吸っていた祖父の家の匂いとはぜんぜん違うものだった

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良い匂いのする人って素敵ですね、男女問わず。実際の香りもそうだし、比喩としても。
しかし匂いって、いったいなんだろう。実際のところ、良い匂いとダメな臭いは紙一重。高級ワインのテイスティングで腐葉土のようなとか、猫のおしっことか、言いますが、接着剤、濡れた段ボール、黒カビ、火打石、馬とかなってくるともう、何か笑っちゃいますね。
とある人気女性歌手の撮影でヨーロッパロケに行ったとき、世界遺産の中世の街並にある老舗の地下のレストランで食事をして数種類のパンが出てきたのですが、その中にハーブ系の香り付けしたものがあって、たぶんクミンの香りだと思うのだけれど、彼女は言いました「腋臭のパンみたい」。その場の全員爆笑でしたが、噛み締めるほどにその言葉のリアリティが高まってきてなかなかに可笑しかった。彼女はそのパン、苦手だったようですが、ボクは結構好きでした。腋臭パン。ヨーロッパ産の濃いめのバターとの相性も良く、いっしょに飲んだ白ワインも美味かった。
21歳のとき、初めてヨーロッパを旅行して、パリのオルリー空港に降り立ったときの不思議な香りも印象に残っていて、そのときは気付かなかったのだけれども、あれはジタンやゴロワーズや葉巻の黒い煙草の匂いと様々な人間の人いきれがミックスしたものだった。茶色い葉っぱのチェリーや峰を吸っていた祖父の家の匂いとはぜんぜん違うものだった。当時はみんな、そこかしこで煙草を吸っている人が多かったが、いまのオルリー空港、どうなんだろう?

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なくなってしまった麻布十番温泉や大田区の銭湯なんかのヨードの匂い

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アポロ13号(映画は1994年で実際の打ち上げは1970年)の映画を見ていると、管制室でいまでは考えられないほどの数のスタッフが煙草を吸っていてビックリなのだが、21世紀のロケット打ち上げの管制室はどんな匂いなのかしら。
プレジデント社と平凡社の匂いはきっと違いますね。早稲田と東大も、永田町の自民党本部と代々木の共産党も、それぞれに。市場やレストランの匂いは想像がつきやすいけれど、意外な場所で思いがけない香りに遭遇することがたまにあって面白いこともある。
普段の暮らしでボクの好きな匂いはいろいろあって、営団地下鉄新木場駅を降りたとき、潮と木材の匂いがミックスして海風にのって漂っている。浅草寺の仲見世を抜けると漂ってくる線香の匂い。なくなってしまった麻布十番温泉や大田区の銭湯なんかのヨードの匂い。
そういえば昔は新品のカメラって、不思議な匂いがしたけれど、最近はなくなっちゃったのかな、革と金属が混ざった匂い。自動車整備工場のオイル。シリア、アレッポの石鹸。JRの切符の裏側の茶色い面。高円寺のガード下。相撲力士の鬢付け油。色鉛筆やダーマトグラフ。銀座伊東屋。新しい写真集のインク。マニラ麻の封筒やお札。浦安市運動公園プールの更衣室で髪の毛を乾かすとき。ちょっとヤバめなペーパーセメントとソルベント(溶解液)。新しいジーンズのアシッド感。雪の積もった朝。

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――明日につづく。

文・写真:大森克己

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大森 克己(写真家)

1963年、兵庫県神戸市生まれ。1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞を受賞。近年は個展「sounds and things」(MEM/2014)、「when the memory leaves you」(MEM/2015)。「山の音」(テラススクエア/2018)を開催。東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(2013)、チューリッヒのMuseum Rietberg『GARDENS OF THE WORLD 』(2016)などのグループ展に参加。主な作品集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や『BRUTUS』『SWITCH』などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。