眼に映るものと、誰かが写し出すもの。それぞれに、それぞれの距離感。意識的な距離感もあれば、無意識の距離感もある。正解はないけれど、好みはあるはず。人と人、人とモノもそう。寄ったり、引いたりしながら、何かを探したり、何かを感じたり、何かを伝えたり。気持ちのいい距離感は、きっと誰にでもある。
さて、帰宅してテレビを点けるとNHKが日本とスコットランド戦の再放送をやっている。当たり前だが中継画像はプレイに寄った画像がほとんどである。スタジアムで遠くから観戦していてよくわからなかったタックルやスクラムのデティール、選手の表情などが迫力とともに伝わってくる。でもさっきまで実際の試合の現場にいた感覚が続いているので、やはり、ちょっと切り取られ過ぎているように感じるのが面白い。もう少し引きの全体像を見たいと思ってしまうのである。
映画でも写真でも寄りの映像、たとえば人物のアップをとらえることは機材さえ揃っていれば、そして、ある程度の経験があれば、そんなに難しくないのである。引きの画面で、ある事象の中心のようなものがハッキリとわかり、その中心で起こっていること以外の様々が映り込んでいて、かつ強度のあるイメージを掴まえることが、そのカメラマンなり写真家のセンスを問われるところでもある。画面の中の情報量が多いので、大袈裟に言うとその写真家の世界観がばれてしまうのだ。
雑誌の複数のページで、ある人物のルポ的なフォトストーリーをつくるときなんかに、ボクは、かなりそのことを意識する。寄りの写真を小さく、そして引きの写真を大きくレイアウトしたい。そして、そこの所をわかってくれるデザイナーや編集者は意外に少ない。まあ、テレビ中継では視聴者が見る機器の画面のサイズが固定されているので、引きの画像が中心というのは、あんまりないかと思いますが、印刷する写真では引きの写真を大きくというのが自分の中に基本としてある。
クラシックなのはH.C. ブレッソン、最近ではW.ティルマンスなど、そういう視点で写真集や雑誌をじっくり見るのもなかなかに面白いのでお薦めです。
映画では、ちょっと古めですが、ネストール・アルメンドロスという撮影監督が撮った映画を見るとよくわかります。エリック・ロメールやフランソワ・トリフォーなどのフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品に携わった人で、自然光を上手に生かした画がとても美しい。そのアルメンドロスがハリウッドで、テレンス・マリック監督の『天国の日々』という映画を撮影していて、20世紀初頭のテキサスの農場にイナゴの大群が襲来するシーンがあって、超アップのイナゴが麦を食んでいるカットと、引きのカットとのコントラストがたまらないです。
そして、引いて引いて引いて、どんどん引いて、飛行機から自分の住む町を眺めたりすると、これはまた悲劇が喜劇に変化するような、具体が抽象に転換するような、ちょっと特別な視点になりますね。そんでもって宇宙からの写真、たとえばNASAのインスタグラムを見ると、この同じ世界にボクも、あなたも、リーチマイケルも横浜のトイレでビールを一緒に飲んだフランス人も、それぞれに、同時に暮らしているんだなあ、という不思議な感覚に見舞われます。
――霜月につづく。
文・写真:大森克己