伊豆高原にある「jikka」(ジッカ)。とんがり屋根の小さくて不思議なレストランのランチを目指して、世界中からお客がやってくる。
イギリスBBCで放映された『The World’s Most Extraordinary Homes』という建築番組を見た。
賑やかな番組イントロが終わると、やがて伊豆高原の小高い丘陵地に、なんとも変わったネイティブアメリカンのテントみたいな、とんがりコーンのような家が現れた。ドローンが高原の上空から映し出すのは、かなり斬新な形の屋根だ。建物は数棟連なっていて、ひとつひとつはコンパクト。林に囲まれた不思議な建物群は、おとぎ話の舞台のような雰囲気もある。一体どんな人が住んでいるのだろう。
番組では、レポーターが建物の中に入ると、開放感抜群のキッチンがまず映し出された。キッチンの正面には大きなアーチ状の窓がとられ、外の景色を部屋の一部のように取り込んでいる。まるで林の中にいるかのようだ。ここがこの建物の中心。教会を思わせる上に伸びる高い天井からは光がたっぷり差し込み、室内はとても明るい。
キッチンでは、2人の日本人女性がいそいそと料理をする様子が映し出された。
窓の向こうにはハーブの庭が生い茂っていて、緑が目に優しい。建築番組らしく様々な角度からこの建物を紹介していくのだが、最も気になるランチのシーンは、料理そのものよりも、ランチを楽しむ人たちのリラックスした様子が画面いっぱいに映っている。ちらっと料理が見えなくもなかったが、なにしろ建築番組だから詳しくは紹介してくれない。でも、あんな風に朗らかな場の空気を生み出すランチって、一体どんな内容なんだろう。
番組を見たのは、ある噂を聞いたからだ。
そこは有名なレストランではないし、話題のシェフがいるわけでもないのに、ランチを目指して世界のあちこちからお客がやってくるらしいのだ。それってどんなところで、何がそんなに人を惹きつけているのか。
世界各地からお客がやってくるその場所の名は「jikka」という。
「jikka」のスタートは2016年。今は誰もが自ら情報を発信する時代だが、ホームページはもちろん、インスタグラムやフェイスブック、ツイッターなどSNSの類は一切やってない。最初から、多くの人に知らしめようとはしていないのだ。だから調べようにも、ほとんど情報がなかった。
番組を見ても、実際はどんな場所でどんな料理が食べられるのか興味はますます深まるばかり。どうしても知りたくなって、伊豆高原まで訪ねてみることにした。
緑豊かな6月上旬の伊豆高原は、微かに夏の匂いがし始めていた。
緑溢れる景色の先には伊豆の海の青が広がっている。自然の色の美しさや光の移ろいを目の当たりにしているだけで、東京から持ってきた混み入った頭の中や、いつも何かを憂いている忙しない心が、少しづつ落ち着きを取り戻していく。
とんがっている家は、東京から車で3時間。電車なら、特急踊子号で東京から最寄りの伊豆高原駅まで2時間、そこからもう少し車で走った山の中腹にある。
エントランスから林の小道を上ってすぐ、丈夫そうな紐と車のランプをアレンジしてつくった、かなりポップな看板が左手に見える。それが目印だ。初夏の濃い緑の中、木々の葉が風で揺れるさわさわという音や、あちこちから聞こえる鳥たちの声に耳を澄ませながら、さらに小道を進む。
木と土でこしらえたラフな階段を上ると、やがて静かな林の奥に、あのとんがりコーンが数棟見えてきた。
離れて見ると、伊豆高原の丘陵地に突如降り立った宇宙船のようでもある。建物の近くまで行ってよく見ると、とんがりコーンの外壁は細く切ったヒノキの板張りだ。空に向かってくるくると渦を巻いている貝殻のようにも見える。
建物の壁の半分近くを半円に大きく切り取ったガラス窓からは、食事を楽しむ中の人たちの楽し気な様子がよく見える。年齢も、性別も、国籍も違う人たちが思い思いに時間を過ごしていて、ちょっと異国的でもある。
窓の向こうに生い茂っていたハーブガーデンは、実際に近くで見るとヨーロッパでよく見かけるキッチンガーデンの有様とよく似ていて、無秩序で混沌としているようだけれど、その実料理をする人にとって使いやすいように考えられていた。あちこち葉をちぎった跡がまた愛嬌だ。
フェンネルやバジル、ミントやローズマリー、ステビアにオレガノなどが、まるで雑草のようにワイルドに生い茂り、ローリエは胸の丈かそれ以上に伸びている。もちろん、大葉やあさつきなどの和ハーブも植えられている。これらは毎回料理のあちこちで利用され、伊豆の旬が盛り込まれた“世界の”家庭料理にたっぷりと使われているという。
まるで大人の秘密基地だ。窓の向こうの部屋の中では、ときどき、ブルーの地に白のストライプのエプロンを着けた女性2人が客の合間を行き来し、お客と会話したりしている。なるほど、あの2人こそが、噂の「jikka」を仕切る人たちだ。建物の中のゲストは一様にリラックスしていて、いい時間を過ごしているのがよくわかる。ああ、早くあの中で食事がしてみたい。そして、なんでこんなに面白い家を建てたのかも聞いてみたい。
建物探訪のような始まりになったのには理由がある。ここはレストランである前に、個人の家であり、生活の場なのだ。
もともと「jikka」は飲食店として設えた場ではない。今もあくまで個人宅として食事を提供している。現在は週に4日間、営業はランチタイムだけだ。営業日時などの告知は、小道を降りた広い通り沿いにぶら下げた、手書きのボードにあるカレンダーの書き込みのみ。この案内を気軽に見ることができるのは、近くに住む人ぐらいだろう。
そう、もともと「jikka」は、地域の人に向けて始めた食事の場だった。
――つづく。
文:馬田草織 写真:高木康行